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自分という物語
あまり趣味のいいものではないが、以前友人から出されたクイズが秀逸だった。1919年に見つかった日記の嘘を見破れ、という問いである。
先の第一次世界大戦で景気は上向き、富める者の浮かれ具合は相当だが、物価の上昇で我が暮らしはいっそう厳しいものとなっている。日本の国際的な地位が向上したことなど、市民の私にはまったく関係のないことだ……
1919年当時、連合国と中央同盟国の戦闘は「第一次世界大戦」などという名前で呼ばれているわけがない、というのが答えだ。二つ目の世界大戦が起こったから、遡って「第一次世界大戦」と呼ばれているにすぎない。
このクイズは、単なる言葉遊び以上の示唆を私たちにくれる。歴史に名前をつけているのは、現在生きている人間であり、現在進行形の「この世界」に名前はない。
ドラマのダイジェストなら、話のスジにとって重要なシーンをピックアップしてくれる。結末が分かっていると、たとえば恋人同士が一度別れる場面なんかも、「この別れが主人公にとって大事だったんだよね」などと振り返ることができる。言い換えるなら、そのシーンの「意味」を解釈することができる。
しかし、現在進行形のドラマでは、いまこの瞬間に起こっていることの「意味」が分からない。同僚が突然会社に来なくなった。受け取れる情報はそれだけだ。「ああ、このとき同僚が来なかったのは、実はね……」と語れるようになるのは、事が終わってからだ。
名前がついていなくて、意味を語れもしない物語を、私たちは生きている。
こんな反論が来るかもしれない。いやいや、専門家がテレビで語っているのは、いま起きている出来事の解釈ではないのか。俺が今日仕事をしているのは、明日ちょっといいもんを食べに行くためだ。
たしかにこれらの事象は、現在を意味付けできているように感じる。
しかし、このような想定は、未来について何かを「予想」しているにすぎない。いま起きていること、いましていることが「未来にどんな意味を与えるのか」という推測である。ドラマのラストシーンを想像しているようなもので、結局のところ「いま」の意味づけではない。現在は過去とも未来とも切り離せないのだ。
未来は不確定なので、専門家の予測は外れるし、明日いいもんを食べに行こうとしたら急に腹痛に襲われるかもしれない。そうなったとき、そのときの「いま」の意味が変わってしまうのだとしたら、私たちはいったいどういう世界を生きているのだろうか。結末がいつ来るかもわからない「人生という物語」に、いったいどのような意味があるのだろうか。
いましていること、置かれている状況、感じているもの、これらに明確な「意味」がないのだとしても、私は自分という物語の優秀な語り手でいたいと思う。
曖昧な未来を無理に予想するのではなく、現在について考え続ける。その唯一の方法が、何かを書き表すということなのだ。少し後ろを振り返れば、自分が残してきた文章があって、そこから自分の足跡をたどっていける。
「前しか見ない」なんて言えば聞こえはいいが、どうしたってその「前」は不確定なのだ。「いまを生きる」にしたって、その「いま」は、けっして未来の予測と切り離せない。それなら、鮮明な足跡を作り、その足跡を振り返るような人生を送りたいと思う。
常に書き続けることによって。