ギャンブルで勝つために最低限必要な思考について
Introduction
こんにちは。国土交通省非公式アンバサダーの元ホテです。胡散臭いタイトルですが、全編無料なので安心してお読みください。悪質なアフィの類もありません。
この記事を読んだら明日から勝てるようになる! 幸せ最高ありがとうマジで! という淡い希望を持ってリンクを踏んでくださった方、申し訳ありませんがブラウザバックの方をお願いいたします。早速ですが、ギャンブルで勝つために最低限必要な思考その壱、すべての情報は批判的な視点で眺めること。これができなければ話になりません。
この記事を通して、今一度見直していただきたいのは、本当にあなたがギャンブルで勝ちたいと思っているのか、という点です。そんなの当然だろ! と怒るのはあとにして、常に自問自答しながら読み進めていただければ幸いです。
安心してください。読了に遣った時間分の何かをプレゼントできる自信があります。時間は何よりも貴重なものです。それをいただいている自覚があります。
あなたの思考をクリアにしていきましょう。それはきっと楽しい旅になるはずです。
愛する娯楽との訣別
賭け麻雀は金額によっては違法なものの、ギリギリ許されるレートで運営されている雀荘が日本にはたくさんあります。パチンコの三店方式に近いチップ精算です。そんな奥ゆかしさを無下にするようで恐縮ですが、ゲーム単価という概念を説明する上で最適なので、麻雀を例に挙げさせていただきます。
麻雀は1ゲーム単位で精算を行います。例外はありますが、ほとんどの場合ゲーム代金(テラ銭)もその都度支払うようになっています。では100ゲームやったとき、あなたの収支がゲーム代込みで+5万円だったとしましょう。割り算するとゲーム単価は500円です。つまり、この実力と環境を維持できれば、だいたい1ゲームあたり500円儲かると「見込む」ことができます。この感覚の是非については後ほど別の章で取り上げますが、ここでは単純化させてください。
では、この麻雀ゲームでもっと稼げるようにするにはどうしたらいいでしょうか。ほとんどすべての人が「ゲーム単価を上げる」と答えるはずです。
勝ちたいプレイヤーはみんな、自分のゲーム単価を上げるように努めています。牌理を見直したり、押し引きの基準を調整したり、書籍で最先端の戦略を学んだり。涙ぐましい努力です。
しかし、もっと簡単な方法があることに気づいたでしょうか。あっさり分かった人はセンスがあります。あなたのマインドセットは既に「勝ちたいプレイヤー」かもしれません。
そう。ゲーム単価がそのままでも、1ゲームあたりのプレイ時間を短くすればするほど、あなたはより稼ぎやすくなります。
ゲーム単価が500円の人は、その精度のまま打牌速度を上げたり、主戦場としている雀荘の近くに引っ越したり、ゲーム時間が短くて済むルールを選んだりすることで、収支が改善されます。こういう細かい視点を持てるかどうかが、ギャンブルで勝つために必要な思考のひとつです。
これ面白いのは、ゲーム単価がマイナスの打ち手は、ゲーム時間が長ければ長いほどダメージが小さくなるんですよね。この歪な構造が分かるでしょうか。1円パチンコを打つプレイヤーがいい例です。どうせ負けるなら長く遊べた方がいい。とにもかくにも、やっている時間が楽しいから。
ゲーム単価とプレイ時間の概念からは、思いのほか深い事実が浮かび上がってきます。こんなベッターを見たことがないでしょうか。
これは、たしかに楽しいと思います。ひとつのゲーム(レース)に時間をかければかけるほど、コスパは良くなるんです。お得感があります。しかし、コスパが良くなるというのは、コストをかける前提で語られる概念です。つまりこれはゲーム単価がマイナス、回収率が100%を切る思考と言えます。
ゲーム単価はプラスだけど、時間をかけないと精度が落ちる。それならそれで問題があります。ゲーム単価にこだわるあまり、勝つために必要なタイムパフォーマンスの感覚がお留守になっているからです。精度を維持したまま時間を削れる方法を考えたことはあるのでしょうか。ないのであれば、勝ちたいという意識が希薄すぎます。このあたりの話を観察すれば、自動投票にこだわる人が多く存在する理由もおのずと理解できるでしょう。
効率よく勝つために必要なのは、なるべく短時間で最大限のパフォーマンスを出すことです。一方で、ギャンブルの楽しさとはその非効率性にあります。わざわざ電車賃をかけて競馬場や競艇場に行ったり、ベットした試合をフルで観戦したり、そういった「無駄」なことこそが娯楽的であるのです。
楽しいからギャンブル市場はその大きさを維持しています。時間を忘れさせてくれる存在として賭場は成立しています。雀荘に行くとそれがよく分かります。子育てに疲れた(と言っている)サラリーマン、何かを忘れたがっているヤンキー崩れ、プライドの置き場を見失った雀ゴロもどき、人生を浪費していることに麻痺したメンバー、年金が尽きるまで打つ老人、彼らは一様に負け組ですが、コストを払ってでも欲しい場所がそこにあるのです。
勝つという行為は、娯楽的なベッターから金を毟り取ることです。麻雀なら目の前に雁首があります。しかし、公営ギャンブルやパチンコ、スポーツベットなどでは、相手の顔が見えません。その背後にどれだけの娯楽的ベッターを思い浮かべられるか。そして彼らと同じことをせずにいられるか。的中を喜び、短期成績に心躍り、毒にも薬にもならない自尊心を満たす。そんなことは、賭博に娯楽性を見出しているベッターに任せておけばいい。
その覚悟がありますか。勝つというのは残酷な営みで、仲良しこよしの自己実現ごっこの対極にあるのです。
ええ、自分の勝ち額をさも立派なお名刺のようにツイート(小鳥の囀り)しているプレイヤーを見かけたら、鼻で嗤ってやりましょう。彼らは賭場における勝利が何なのかわかっていません。けっして悟られないように、無駄なヘイトを買わないように、静かに、淡々と、効率とパフォーマンスのことだけを考える。インタレスティングな楽しさならともかく、時間を忘れさせてくれるような淡い熱中はそこにはありません。
ブラウザバックのラストチャンスです。過去の自分と訣別できそうなら、次章に進んでください。
種々の情報への態度
情報化社会という言葉が人口に膾炙して久しいです。世はビッグデータ。あちこちに様々な情報があり、ギャンブル市場も例外ではありません。
たとえば、タイムラインにときどき流れてくる「この会場ではこの出目がアツい!」「この指標通りに賭けたら回収率x%!」などの文字。これも情報です。「この馬の歩様はこう!」も情報。「今日の水面は捲りが効きやすい!」も情報。たくさんあります。さあ、どれが勝てる情報なのでしょう。
残念ながら、いくら馬の歩様に異常を見つけたからって、それがオッズに織り込まれたら意味がありません。しかし、娯楽的なベッターは、オッズなどお構いなしにこのような「情報」を好みます。なんだか物凄い(と思える)情報を見つけたら、飛びつきたくなります。それで望ましい結果になろうものなら、天にも昇る気持ちになることでしょう。
そう、人間は何もないところに物語を作りたがります。有効な情報なんて皆無に思えるバカラですらそうです。プレイヤーが二連続で勝っているから次もプレイヤーだ。ここで大きく張ったらすべて取り返せる。今日はツいてる。いい流れだ。見える気がする。などなど。これらに論理的な根拠は皆無です。
しかし、論理的な根拠でしか立ち回れないものに人は熱中しないのも事実です。歩様がどうだとかは、それが統計的に実証されない「感覚的な情報」であるからこそ、人は熱中できると言えます。分からないからこそ、プレイヤーはそこに好き勝手な物語を与えて、丸ごとそれを楽しむのです。
そして論理的でないプレイ(ギャンブル)をするとどうなるでしょう。確率通りの回収率、バカラであれば99%、公営ギャンブルであれば75%前後に収束していくはずのギャンブルは、途端に分散します。一晩で大勝、大敗。確率はどんどん上へ下へとブレていき、そのジェットコースターを人は楽しむわけです。収束した頃には、自分が何をやっていたか忘れています。確率通りの淡白な物語をミクロな視点で眺めると、情報に踊らされる大衆の悲喜交々が見えてくるではありませんか。これがギャンブルに集う人間の正体です。
一方その頃胴元はといえば、そうした分散を楽しむ人をたくさん集めて、全体的に見れば数学的に収束する「ひとつの集団」として扱います。ひとりひとりが大きな収支変動を経験しても、それらが集まれば「数学」と化します。だからカジノやブックメーカーはハウスエッジが低くても成り立ちますし、公営ギャンブルは「国民が唯一喜んで支払う税金」とまで呼ばれるわけです。
勝ちたいのあれば、その俯瞰的な視点に立たないといけません。プレイヤー個人は、情報に踊らされる「夢見るギャンブラー」ですが、それらが集まったときにどのような物理法則が生まれるのか。これはそのまま、実証経済学や社会科学がこの1世紀に進んできた研究の道筋と重なります。
情報に接するときの態度は、勝ちたいのであれば一択です。その情報はどう浸透して、どう作用するのか。この市場のこういうデータは、こういう心理からこのようにオッズに寄与していくが、このケースではこのくらい実態と乖離するので、勝つためには有効/無効である。これです。
前述した情報への態度を解体すると、この要因それぞれに合致します。最後に「衝動的な反応の抑制」が挙げられているのが味わい深いです。衝動的に反応するのは、上で書いてきた楽しみたいプレイヤーの行動様式だからです。
何らかの情報を受け取ったら、まずはこう考えましょう。他の人はこれを見てどう思うか? それがスタートライン、勝ちたいプレイヤーが持つべき最低限の視座です。
偶然性の数学的理解
スタートラインに立ったあなたは、早速自分の実力を試したくなりました。自分なりの判断基準でプレイして、慎重な資金管理で破産を避けて、2ヶ月くらい経ったあたりでしょうか。おっ、ちょっと浮いてる!
5月、6月と、長きにわたって集計した私のオープンチャットでのベット成績です。714ベット行い、的中率は8.68%、回収率は105.85%です。優秀ですね。1レース3,000円賭けていたら、単純計算で120,000円くらい浮いています。おお。1レースあたりの平均獲得オッズは12.2倍と、なかなか派手な戦略です。
さあ、この成績はあてになるでしょうか。なるとしたらどのくらい? ギャンブルクイズ。お考えください。
ブックメーカー界隈の悪態つきニストもげ氏が作成した、成績分布予測を借りてみます。実際の結果を入力しましょう。ポン。
あれれ。なんだか歪な結果になりました。ちなみにROIとはざっくり言えば回収率のことで、回収率105%はROI1.05になります。
平均のオッズが高すぎて、現実的な回収率の値が限定されてしまうようです。ちょっと母数を増やしてみます。同じペースで1年間、4,000レース回したとしましょう。これなら相当信頼できる結果だと言えそうです。1年間の回収率が105%の予想屋、いたら問答無用で頼りたいですよね?
綺麗になりました。
オッズ12.2、潜在ROI1.058。仮にこの数値が私の実力だとしましょう。その場合、年間回収率が104~106%になる割合は16%弱だそうです。恐ろしいことに、この優秀な実力をもってしても、13%程度はトントン以下の戦績になってしまいます。
では、同じような高オッズを狙っているものの、潜在ROIが0.9(回収率90%)の平均的な養分さんの年間成績をシミュレーションしてみましょう。
さすがにマイナスのケースがほとんどですが、年間でプラスになる未来が2%もあることに驚きませんか。回収率90%の実力なんですよ。4000回もベットして浮くことがある? 直感に反しますよね。私もそうです。4000という膨大な試行を重ねても、これだけ結果はブレます。
最後に、平均獲得オッズが2.0倍の、ガチガチ本命党に登場してもらいましょう。回収率は95%、たくさん当たるけど絶対に勝てない例の人々です。そうそう、5%の欠損はnote代で埋めている例の人々です。彼らが1ヶ月、400レースにベットして、結果がプラスだったと騒いでいる光景を想像してください。
シミュレーション上、15%くらいはプラスになります。短期成績とはこんなにも信用できないものなんです。今度見かけたらこう言ってやりましょう。お兄さん、運がいいね! もっとも、その人の潜在的なROIを見抜けたのなら、の話ですが。
要するに、実力なんてものはこれほどまでに推定しづらく、短期なら論外、長期でも冷静に眺める必要があるということです。上記の例はレートを固定させたものですが、ドラや追い上げやらをしていればさらに結果がブレるのは自明です。
勝ちたいのなら、勝ってしまった期間ですら、達成感を覚えてはいけないと言っています。無茶苦茶ですよね。そう、とんでもない忍耐ですよ。最初の章でギャンブルそのものを楽しむことと訣別し、前章で情報に触れて予想をする喜びも放棄したのに、その上「勝ったことすら喜べない」わけです。やっていることはまさに別のゲーム。苦行と言い換えてもいい。私のプロフィールに刻まれた「競艇、それは苦しい」の文言の背景には、こんな事情があるわけです。
「ギャンブルで勝つ」とは、ベットの精度をそのままにして、ベットそれぞれへの興味関心を失くすこと。人生すべてを捧げる価値があるかはさておき、人生すべてを捧げても足りないくらい壮大な話であることはたしかです。
手軽にサクっと勝ちたいなんていうマインドとは真逆にあると言っていいでしょう。でも皮肉なことに、ギャンブルは国が規定するように「勤勉さや倫理的な価値観に反しており、幸運やチャンスに恵まれることが成功につながるという考え方を奨励しているもの」だとみなされています。楽に勝ちたい人が集っては簡単に負けて、負けても負けてもそこに居座り、短期的な幻を拠り所にしては夢を見続ける。
そんな刹那的な世界で「勝つ」ことが、いかに狂っているか理解できますか。控除率がどうだから勝てないなんていう話ではなく、原理的に狂っている所業なんです。
ギャンブルから手軽に得られるものをすべて捨て去り、歯を食いしばって生きていく。労働、いや求道に近い。もうブラウザバックはできません。最後の章で、少しだけ救いがあることを示します。
知的好奇心との邂逅
ギャンブルは昨日と今日を切り分ける装置です。分散に振り回されることこそがギャンブルをギャンブルたらしめている。同じことの繰り返しだったらつまらないでしょう。だから確率を無視して、その場その場の娯楽を追い求めます。
そんな娯楽的プレイヤーとは、この記事でお別れしました。あなたは決心しています。ちょっと勝利への道を進んでみたいと考えるに至った今の心境を、できればお聞かせ願いたいものです。
この記事で語ったことは、最低限必要な思考です。基礎は大切ですが、面白味に欠けるでしょうか。申し訳ありません。真実とは得てして退屈なものなのです。毎日のギャンブルを楽しんでいるような人々が、この記事の内容をいとも簡単に受け入れたなら、それはそれで失敗だと言えます。
しかしながら、私は毎日が退屈だとは思っていません。こんな苦行をしている身なのに、なぜ楽しめているのか。そのヒントは、閉じられたギャンブルの世界の外にあります。
歪んでいるように見えるオッズがあったとします。どうも自分の感覚とは符合しない、何やらキナ臭いオッズです。なぜ大衆はそこにベットしたのか。あるいはしなかったのか。そんなことについて考え抜くと、行き着く先は科学です。
偶然性の強いものへの期待感が膨らんだとき(この捲りあんじゃね!?)や、ニアミスでアツくなったとき(なんで抜かれんだよ!!)は、脳の報酬系が活動します。この報酬系の活動は、生物が環境に適応し、生存し、進化していく上でのエンジンとなります。こういったモメントの前景化が賭博行為で、だから誰もがギャンブルにハマる可能性がある。脳神経科学であり、進化心理学であり、生物学の範疇といえます。
予測計算可能性が増したテクノロジーの進展によってリベラリズムが浸透する中、あえて主体自身に織り込まれた無限を前提として、自己責任性やリスク計算を越えていく行為。それを賭博と言い換えてもいいかもしれません。政治学であり、現代論であり、社会科学。
スメルサーが提示した「熱狂」は、オッズダンスする大衆の姿を鮮やかに描いてくれています。ソロスが打ち立てた再帰性理論は、ベッターが歪みながらフィードバックループを繰り返す様子を見せてくれます。市場のリスクとリターンをフラクタル理論で計算したマンデルブロ、資源を奪いあうゲームの参加者がルールに関心を持てなくなる状態を「自発的な奴隷状態」と端的に表したプルデュー、生成的コンピュテーションを人間固有の認知機能として整理したハウザー。
この世界を解明しようと働く巨人たちが、多くの知見を残し、それを発展させています。それがギャンブルに応用できないと誰が決めたのでしょうか。ギャンブルでの勝利は、たしかに様々なことを捨てないと実現できません。しかし、それと引き換えに、無数の「知」が広がってきます。
ギャンブルについて理解することは、人間について、この世界について理解することと同義です。世界がとてつもなく複雑で、未知に満ちていて、だからこそ奇跡的なのだと、ギャンブルというレンズを通して眺めることができます。
脳内の視床におけるノルアドレナリントランスポーターの密度が低い人ほどギャンブルでは慎重な判断をする、という放射線医学総合研究所のレポートがあります。参加する市場を選ぶ際に、逆に大胆な娯楽的ベッターが集いやすい場所を選んでみたり。どうですか。何やら小難しいことを言っていると唾棄せずに、こういう可能性のひとつひとつを検証してみるのもまた一興ですよ。
私は最近、競艇の女子戦における特有のセンチメント分析に勤しんでいます。誰がどんな物語の中で、どこにどの程度「不合理な投票」をしてくれるのか。まずは市場を眺めて、仮説を立てて、データをお化粧して、解析を進める。こんなプロジェクトをいくつも抱えていれば、そりゃあ退屈しません。
一芸に秀でることは他の物事への扉を閉ざすのと同じだと、ヴァイオリニストのイツァーク・パールマンは言いました。ギャンブルという理不尽なゲームで勝つのは、紛れもなく一芸です。金を稼げるから偉いのではありません。その道を突き進んだことそのものに価値があるのです。
そこに広がっている世界は、私たちが思っているより壮大で、深遠で、目の前の小銭なんかよりよっぽど心躍るものかもしれません。今日いくら勝った、それはそれでとても素晴らしいことです。しかし私たちは、本質的な勝利を目指してしまいました。腹を括りましょう。
長期成績ですら当てにならないと述べた責任をとるときが来たようです。私たちはいったい、何をもって本質的な勝利だと考えればいいのでしょう。私たちはいったい、何に縋ればいいのでしょう。
ここまで読んでも、まだギャンブルで勝てると思っていますか。
それならもうそこにあります。
縋るべきは、あなたの知性に根差した、その誰のものでもない信念です。
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