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男女の友情


 明るくて短い髪に、コーヒー色のニットベストがよく合っている。切れ長の目と薄く整った唇からはアンニュイな雰囲気が漂っていて、それはたまに私の心をざらつかせる。
 亜美と会うのはいつも昼だ。気になる店があるときに連絡して、予定を合わせる。ペースは数か月に一度。お互いの環境がまったく違うからか、会うと近況報告で時間が過ぎ、あっという間に解散の時間を迎える。
「男女の友情ってさ、成立すると思う?」
 亜美が唐突に口を開いた。パスタを咀嚼していた私は、思わず飲み下す前に返事をしそうになった。わざとらしく数拍あける。
「どうして?」
「いや、友達がね。女の子。その子が言うんだよ。男女の友情なんてありえない、って」
「ありえないってことはないと思うけど」
「だよねえ、やっぱり真澄くんはそっち派だと思った。一票入ったってドヤっておかないと」
 亜美は嬉しそうに笑ってパスタを繰った。小さく綺麗に巻かれている。

 出会いはスイミングスクールだった。郊外のそれは、ひとつのクラスに数人しかいないことも珍しくなくて、だから自然と話すようになった。
 中学生だった私は、特に何の目標もないまま泳いでいた。亜美は水泳部だったが私は違った。もともと辞めるつもりだったスクールを続けた理由のひとつに、亜美の存在があったことは間違いない。以来それとなく関係が続いてもう10年以上になる。
「でもさ、そもそも友情って何だろうね」
 亜美の言葉に追想が途切れる。話は終わっていなかった。
「調べてみるか」
 友達の間の情愛。スマホの画面にはそう出てきた。
「情愛って何なの、真澄先生」
「愛情じゃないのかな」
「愛情ならさあ、恋人とか夫婦でもいいってこと?」
 言われてみれば奇妙だ。それはとても友人とは呼べない。友情という言葉のニュアンスに「恋愛感情」だけは含まれていないだろう。
 皿の端あたりを見やりながら頭を巡らせていると、亜美が笑った。
「でもまぁ、私たちが証明なんだからいいか」
「証明?」
「男女の友情があるってことの」
 自分でも嫌になるくらい自然な笑顔を作った。

 喉の奥に魚の小骨が刺さったとき、それは痛みというより違和感として認識される。違和感は不快で、それがなかなか取り除けないとなるとなおさらだ。
 研究室に見慣れない花があった。ポスドクの一人が持ってきたのだろう。これもひとつの違和感だ。昔から些細な異物に気をとられる性分である。
「海の向こうのドクターは、学内雑務がないからいいよなあ」
 私の論文を流し読みした教授の一言目はそれだった。無精ひげが昨日より増えている。机上のコーヒーはもう冷めきっている様子だ。機関誌の締切が近いといつもラボに泊まるから、そこは家のように散らかっている。
「はあ」
「永山君、サボったでしょう。アリストテレスを下敷きにして意志の存在を論じるなら、アレントの議論を踏まえるんじゃなくて、もう少し独自の方向で書かないと。これじゃあ既視感しかない」
「すみません」
 私の魂胆など教授には筒抜けだった。自分ではうまく論理の筋道が立てられなくて、他の哲学者の論文に書かれていた議論をトレースしたのだ。
「教授は、男女の友情って成立すると思いますか」
 ばつが悪くなったのが半分、それが本当に「小骨」だったことが半分。私の口からはそんな質問が飛び出していた。教授は口を半開きにしてこちらを見る。
「それは存在? それとも契約上ってこと? 契約上なら成立するでしょう。何らかの罰則さえ規定すればそれは可能です。ホッブズを引用するまでもない」
「でもそれは本当の友情ではないですよね」
 教授は数メートル届きそうなくらい大きなため息をついた。
「存在論の議論がしたければ、まずは友情の定義を明確に。その前にやることあるだろうけど」
 話の後半あたりから、教授の視線はパソコンの画面に移っていた。

 用もないのに連絡をするのが躊躇われたところに、スイミングスクール時代のコーチが結婚したという投稿が飛び込んできた。婚姻届の書類の上に指輪が置かれているだけの、何ともいえない投稿だった。閲覧用に登録したインスタグラムが初めて役に立ちそうである。
〈佐伯さん結婚したんだね。びっくりしたわ〉
 亜美にそう送ると、チャット画面を閉じる前に既読がついた。
〈そう、びっくり?〉
〈びっくりしたら失礼なんだけどね。全然結婚する年齢だし〉
〈でもなんかびっくりだよね、わかる〉
 いつものように簡素なやりとりだ。亜美はけっして絵文字を使わない。たまにデフォルトで入っているスタンプが送られてくる程度だ。
 私は話の糸口を探っていた。契約。教授の一言が頭から離れない。亜美は私に「友人としての契約」を求めているのだろうか。そうしてくれと言われたらできる。人より理性は強い方だ。しかし、この違和感を抱えたまま時間が過ぎていくと、おそらくどこかで破綻するだろう。
〈俺は一生結婚できなさそうだけど〉
 だからこんなメッセージを送っていた。すぐに既読がつかなかったら消していたかもしれない。身を裂くような羞恥心。1分、2分と時間が過ぎる。返信は来ない。
 余計な一言だっただろうか。どう返答したところでぎこちない空気になる。そんな独りよがりの言葉に頼った自分を恥じた。言いたいことがあればストレートに言えばいい。何を恐れているのだ。
 要するに、これが教授の言うところの罰なのだろう。男女の友情というのは契約で、契約は破ると罰則がある。言うまでもなくそれは、せっかく培ってきた関係性が切れるという、耐え難い苦しみだ。
 何度観たか分からない切り抜き動画を開く。横滑りしていく映像。音量をわざと大きくした。何も耳に入ってこない。
 そのとき、ポップアップが目に飛び込んできた。
 脳がそれを受け入れるのに数秒かかった。
〈結婚式、来てね〉

 花はしおれていた。研究室に花を飾ったところで、誰も手入れなどしない。水の入れ替えがされたら奇跡だ。
「いいじゃない」
 論文をこちらに突き返してくる。ぶっきらぼうなのにどこか温かく思えたのは、珍しく教授がひげを剃っているからだろうか。
「この方向でまとめてよさそうですか」
「いいじゃない、とはそういうことです」
「ありがとうございます」
 少し声が上ずったことに、自分でも驚いた。
 亜美の結婚はショックだったが、小骨がとれた快感もあった。この数日は執筆に打ち込めたし、こうして論文のアウトラインも完成した。一線を超えなくてよかったという安堵もある。
 これでよかったのだと思うことにした。こちらが友情を超越した何かを感じていたのだとしても、向こうがそうでないのなら、それを承諾するのもまた情愛の一種だろう。
「そうだ、この前」
 教授の声でふと我に返る。
「男女の友情がどうこうって、あれ。ちょっと考えてみたんだけど、成立するかどうかが問題になるっていうことは、つまり成立させないといけない事情が人間側にあるわけでしょう。でもそれは不自然だ。生殖をしなければ生物上の繁栄はない。性的欲求がなくなれば人間は絶滅する」
「はあ」
「しかしあらゆる関係性が性的欲求の上で成り立っている必要性などどこにもない。生殖ではなく生存を考えるなら、様々な人の力を借りなければならないだろう。友人関係、ひいては友情というものはそのためにある。人は一人では生きていけないのだ。男女の友情が本来的に存在しないのだとしたら、単純に考えて友人の候補が半分に目減りしてしまう。人間は生存のために理性を発達させてきた。その当たり前のテーゼを土台にするなら、つまり男女の友情はそれそのものが生存に……なに笑ってるんだい」
「いえ。とても面白い着眼点だと思って」
「まだ半分だよ」
 あの花瓶には水が多すぎるのだろう。入れ替えついでに少し減らしてやれば、花も長持ちしそうだと思った。


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