見出し画像

因果な展示


 展示でいい動きをしている選手を見つけた。5枠であまり人気していないようだった。喜び勇んで軸にする。結果、差し遅れた4コースの上からズバッと切り込んで2着。いい的中だった。
 展示でどうにも鈍そうな動きをしている選手を見つけた。3枠で人気を集めている。しっかり切り捨てて購入。結果、握って上手く捌いて2着。足の悪さを腕でカバーされた。これは仕方ない。
 時間がなく、展示もろくに観ずに投票した。腕の面ではそれなりに自信があったが、あまりに見当違いな結果に終わり、嗚呼、やはり展示はチェックしないとダメだと反省する。

 ある結果が得られたとき、その理由を考えたくなるのは、人間に備わった本能的な欲求である。マジシャンに「タネも仕掛けもございません」と言われたところで、それを真に受ける人はいないだろう。本当にタネも仕掛けもなく、超魔術でバラバラのトランプを揃えたのだとしたら、むしろ興醒めだ。
 魔術ならまだロマンティックだが、単なる偶然だったと知ったらどうだろう。トランプ一組のソート(並べ替え)の世界記録保持者ブラダーチは、52枚のトランプを約30秒で綺麗に揃えるマジシャンだ。どんなトリックなのかは見破られていない。しかし、トリックがなくても、我々はこの記録を超えることができる。0秒あれば十分だ。52枚のバラバラのトランプを「適当に」ソートした場合、綺麗に揃う確率はゼロじゃない。タネは単純だ。8000不可思議(10の64乗)に1回は、このような奇跡が起こってしまう。もっとも、全人類が試している内に、宇宙はその歴史を閉じるだろう。
 この挿話で言いたいのは、その奇跡を目の当たりにしたとき、理由を考えても無駄だということだ。時には本能的な欲求に抗わないといけない。

 展示から得られた情報が、結果に対する原因になっているというのは、もしかしたら幻想かもしれない。
 トランプの偶然のように、およそ伺い知れないような力による結果でも、人はそこに何かしらの因果を求めてしまう。整然としているストーリーが好きなのだ。伏線はすべて回収されないと気が済まないし、展示でよく見えた選手は着に絡んでくれないと腹立たしい。
 とある競艇通の人と話したことがある。

「ルーキーの展示について、僕もなんとなくではありますが、一人で乗るときはプレッシャーもなく全力が出せるんだろうなと思っていました」
「私もルーキーだけは節間のリプレイで判断するようにしています。最後尾の展示なら、転覆しても迷惑にもならないので、全力も出しやすいのかなと」
「あとはやはりベテランと違って手抜きも上手くないんでしょうね、慣れてないから」
「ベテランは無駄な体力や駆け引きなどもあるので手抜きの大事さとかも知ってますもんね」

 展示での「好走」とレースはまったくの別物だ。頭では分かっていても、展示でよく見えたルーキーが着に絡むと、どうしてもそこに因果関係を見出してしまう。
 Aの後にBが起こると、AがBの原因であると思い込んでしまうのは、前後即因果の誤謬という有名なバイアスだ。「なぜ起こったか」と「何が起こったか」は根本的に違う。

◎展示で良く見えたルーキーが着に絡んだ
✖展示で良く見えた「から」そのルーキーは着に絡んだ

 展開の利、他の選手のミス、向上している技量、気象、水面条件、心理、偶然、運……様々な要素が複雑に絡み合って「結果」は出される。何かひとつがその「直接的な原因」だというのは、まぎれもなく単なる幻想なのだ。

 ここまで書いてきてなんだが、そういう幻想こそが、人の生きるモチベーションだったりもする。
 展示で良く見えたから、そう見抜けたから的中させることができた。これほど嬉しい勘違いはない。脳の報酬系はとてつもなく刺激される。また展示を観ようという気になる。競艇がどんどん楽しくなる。
 たしかに心理的なバイアスは、精密な意思決定を求める場合においては、マイナスの働きをする。最も重大な意思決定の場と言っていい「軍事」において、心理的なバイアスは執拗なまでに除外されている。その努力目標はけっして揺るがない。
 一方で、賭博のような娯楽に関しては、バイアスを取り除けば取り除くほど「単純な楽しさ」が失われる。その代わりに勝てるようになったからと言って、それで本当にいいと思えるかどうかは、自分の胸に再三問いかけるべきだろう。

 競艇、それは苦しい。私がその標語をプロフィールに掲げている意味は、つまりはそういうことなのだ。
 一時的な愉楽よりも、厳密で冷徹な論理に興味を持ってしまったら、そしてそれこそが悦びになるのだと知ってしまったら、あなたが展示を観るときの態度は一変するだろう。




いいなと思ったら応援しよう!