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鮮やかな暗闇

 

 不快な音に起こされた。顔に汗の玉が転がっているのを感じる。どうやら寝ている間にリモコンを背中に敷いてしまっていたようで、俺は手をまさぐりながら冷房を入れなおした。
 肌にまとわりついて離れない暑さに辟易する。ひっきりなしに沸き立つ蝉の声に、道路工事らしき金属音が重なって、さながら中華鍋で炒められているような心地だった。
 呼吸の粒子ひとつひとつに夏がまとわりついている。
 しかし俺の心は軽かった。

「知らない人からかかってきて怖くないの」
 腕の中でリオが言った。
「Twitterにケー番なんか載せてるの真澄くんくらいだよ」
「そうでもしないと出会いがないだろ」
 いつもの柔い肩の感触。
「そうかもしれないけど」
「それに、変な奴からかかってきたって、それはそれで面白い」
「真澄くんが一番変だよね」
 リオはそう言ってころころと笑った。
「もう時間だけど、どうする?」
「気をつけて帰れよ」
「冷たいねえ。ま、いいけど」
「あ、そうそう、着信履歴の一番上」
「ええ、また?」
「うん。エレクトリカルパレードにでもしといて」
 親友にしか頼めないことがあるなら、デリヘルにしか頼めないこともある。
「はい。しといたよ」
「サンキュー」
「また電話来そうなの?」
「さあな。来てほしいけど」
「珍しいね」
 リオはまた笑った。
「じゃあね。間違って冷房消さないようにね」
「そんなに馬鹿じゃないよ」

 初めてのエレクトリカルパレードが鳴ったのは、蝉の声がだいぶ落ち着いてきた頃だった。
 俺は浮かれた反射神経を悟られないよう、呼吸をワンテンポ遅らせて携帯の通話ボタンを押した。
「もしもし」
「ごめんね突然。電話じゃなきゃダメだって言うから」
「大丈夫だよ」
 大丈夫なんてもんじゃない。
「いま何してたの?」
「寝てた」
「うそ。寝起きの声じゃないよ」
 耳元から優しげな笑いが漏れてきた。
 顔も名前も知らない。
「カレンは?」
 最初の電話でそう名乗ってはいたが、それが本当かは分からない。
「わたしは今帰ってきたところ。今日も暑かったねえ」
「お疲れ」
「やだ。お疲れって言われるとほんとに疲れる。おかえりって言ってよ」
 音が鳴らないように鼻をかんだ。カレンの冗談めかした表情が頭に浮かんだ。
 他愛もない会話が続いた。世間のこと、芸能人のこと。ことさら盛り上がるのは音楽の話だ。
 Twitterを始めたのも音楽がきっかけだった。そういうことに疎い俺は、リオ嬢にすべてを任せ、アカウントを開設した。慣れるまでは一苦労だったが、今では何不自由なく投稿ができる。しかし未だにリプライとやらの確認方法には悩んでいる。
 電話番号を載せてみよう、と思い立ったのは、沈丁花の香りが漂う春先のことだった。単純な好奇心。退屈しのぎに音楽の話でもできたら。そんな風に思った。
 マルチの勧誘、無言電話、セールス、呼吸の荒い男性などを経て、初めてまともな電話がかかってきたのが先日だ。
 長話をした。どのくらいの時間が経ったか覚えていない。喉に疲労を感じた。それでも、切った瞬間にまた声が聴きたくなった。
「今日は早めに寝ようね」
「ああ」
「わたしはいいんだけど、真澄くんは仕事でしょ?」
「俺はニートだから」
「ええ、いいなあ。わたしも仕事辞めたい」
 カレンから仕事の話が飛び出したのは初めてだった。聞いてほしいのだろうか。それでも、深く探らない方が長続きすると思った。さりげなく、広い心を見せつけるように。
 そう。駆け引きをしている。
 俺は赤面した。
「辛いんだ、仕事」
 80点くらいか。
「辛いことしかないよう」
「彼氏とかに慰めてもらわないの」
 20点。ついやってしまう。興味のない素振り。案の定、嫌な間があった。しかしカレンは、
「彼氏なんていないよ」
 努めて明るい声だった。
 それが心苦しかった。見透かされた。そんな羞恥心が、俺に二の句を継がせなかった。
 この日は喉が嗄れる前に電話が終わった。


 エレクトリカルパレードはそれから三日鳴らなかった。俺は慣れたブラインドタッチでリオを呼び出した。
 過ぎ去ってゆく時雨のような性欲があった。
「120分なんて珍しいね」
「いつも金欠だからな」
「はいはい。あ、エレクトリカルパレードの子はどうなった?」
 嫌な女だ。
「今日は三回抜くから」
「えー、なんかあったの?」
「何もない」
「真澄くん、三回もいけないでしょ」
「まだ25だぞ」
「20過ぎたらみんなおっさんだよ。はい、シャワー行くよ」
 シャワーで三日ぶりの洗体をしてもらったのち、結局二回だけ果てて力尽きた。


 自分から電話をかけた。散々抜いた今なら話せる気がしていた。
 着信履歴の一番上。長いコール音。
「もしもし」
 カレンの少し鼻にかかった柔らかい声だ。
「もしもし。突然ごめん。いま大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 言おうと思っていることがあった。
「パラノーマルの新譜聴いた?」
「MVみたよ。凄いね。めちゃくちゃよかった」
「そりゃよかった」
「真澄くんのオススメなら信頼できるから」
「今度さあ、一緒に聴こうか」
 沈黙。
「一緒に?」
 漏れるような笑いと共に、右上がりの呼応があった。
「そう。会おうよ」
 俺は遂に言った。
「どこで?」
「どこでも」
「いつ?」
「いつでも」
「でも、わたし……」
 言い淀んだ何かを悟った。
 彼氏はいないと言っていた。気は合うと確信していた。それなら何を躊躇うのだろう。
 短い沈黙の間に考える。
 体目当て。そんなことはない。俺はただ話してみたいだけだ。カレンの空気を感じながら、その声を肌に染み込ませたかった。
「怖い?」
そんな言葉が口をついた。
「そうじゃないけど」
「俺は非力だよ。度胸もない。会って話すだけ」
「あはは、そんなこと心配してないよ」
「じゃあ」
「わたしね」
 遮られた。
「本当に可愛くないの」
「可愛くない?」
 反射的に放ったのは、無意味な鸚鵡返しだった。
「そう。可愛くない」
「それが?」
「それが、って。真澄くん、わかってないよ。どんな想像してるか知らないけど、本当にブスなの」
 胸が苦しくなる。呼吸の荒さを悟られないように電話口を少し離す。カレンの声が若干遠くなった。
「わたしね、お姉ちゃんがいるんだけど。とても可愛いお姉ちゃん。昔はすごく嫌だった。ありがちな話だけど」
「うん」
「わたしね、ずっと音楽やってたの。こんな声でしょ。自分で言うのもなんだけど、可愛いじゃん。これも昔はすごく嫌だった」
 堰を切ったように話すカレンに、俺はただ耳を傾けた。
「お姉ちゃんの容姿があればなあって思ってたよ。ずっと。歌うたびに感じた。ああ、これを届かせることはできないんだなって」
「そんなこと」
「そんなことあるんだよ。いっぱい傷ついたもん。ブスのクセに歌声だけは可愛いんだなって。ネット配信で顔がチラッと映っただけでそんなコメントの嵐。怖くて何度もアカウント消したよ。歌だけアップするじゃん。そしたら顔出し配信しないのはブスな証拠だって言われる。どうすればいいのかな」
「そんな奴ら放っておけって」
「放っておけないよ」
 力強い声だった。
「みんなに好かれたいんだもん。認められたいんだもん」
 電話口から鼻を啜る音が聞こえた。
 そんなの気にするだけ無駄だよ。俺はその言葉を飲み込んだ。
 カレンの強烈なコンプレックスを受け止めることはできなかった。俺には分からない。住んでいる世界が違う。不用意な慰めは、カレンの何かを更に刺激するような気がした。
 俺も嫌われたくなかった。
 でも、言うしかない。そもそも言わないと会えないのだ。
 それに、俺なら救えるかもしれない。そんなスケベ心もあった。
「俺は気にしない」
 強い口調で言った。
「そんなことない。絶対がっかりする」
「がっかりしない」
「なんで言い切れるの」
「俺は」
 深呼吸した。荒い呼吸を思い切り伝えた。
「俺は目が見えないんだ」

 10年前。俺の世界から光が消えた。
 原因は火災だった。一酸化炭素中毒で生死を彷徨った。親は助からなかった。
 後遺症は残酷だった。身体は動くようになったが、剥離した網膜は治らなかった。
 生きる気力などなかった。それでも死ねなかった。光が消えた世界では、死ぬことすら困難だった。
 仕方ないから生きた。腹は空くし、性欲は溜まる。腹立たしいことに、人恋しくもなる。
 便利な世の中だ。退屈潰しに音楽を聴いた。施設員の補助もあり、スマートフォンはすぐに慣れた。音声アシストサービスで大抵のことはできるようになった。誤字さえ気にしなければ投稿もできる。リプライだけは確認できないが、それは誰かに頼めばいい。
 リオ嬢も最初は面食らっていた。店には目が見えないことを断ってはいなかった。しかしリオはそれを黙っていてくれた。今では何でも頼める間柄になった。
 国の補助はマックスだ。働く必要もない。すべて叔父が管理してくれている。住居も与えられ、俺は暇を塗り潰すような毎日を送っている。
「逃げたっていいんだよ」
押し黙っているカレンに向かって、俺はそう言った。
「向き合おうとすると苦しくなる。何も見えない世界を意識すると、俺は途端に死にたくなるよ。前向きになんかなれない。10年経ったってそうだ。だったら気にしないように生きるしかない」
「気にしないように……」
「何で向き合おうとするんだよ。ブス? いいじゃねえか。そんなの忘れるような生活をすればいいんだよ」
「でも……」
「なあ、俺は役立たずか?」
「えっ」
「まだ気づかないのかよ。俺と過ごしているとき、カレンは何も気にしなくていいんだよ」
 嘘だ。俺自身が必要とされたかったのだ。カレンに恩を着せるようにして、何とか心に取り入りたかったのだ。
 でも、それでいい。そんな己の狡さも、今は許せる気がしている。
「最近海に行ったか?」
「海?」
「そう。海。俺は10年以上行ってないよ」
「そっか。そうだよね」
 海水浴もスイカ割りも、花火もバーベキューも、俺には縁遠い娯楽だ。
「海の良さってなんだ?」
「良さ……青いところかな。綺麗だよ。あっ」
 気まずそうに言葉を切ったカレンに、
「綺麗な海、俺に見せてくれよ」
俺はそれだけ言って、白杖を手に取った。

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