勝負
年に一回ハガキが届く。
「今年は18,672レースに投票して、x円のプラスでした。」
1年間のリプレイを観るのは骨が折れるし、そもそもBoat Castも保存してくれていないから、そのハガキを一瞥して、記帳に出かける。浮いた分で美味しいものでも食べて、年始からテレボートを開く。
元日に銀行が営業していないことは百も承知だ。これは喩え話である。
「その日の収支を気にしない」という考え方が行き着く先は、上のようなユートピアだ。しかし、これではギャンブルをしている意味があまりない。甲斐がない、と言った方がいいだろうか。結局のところ、我々はその日の収支を気にしたいし、当たった外れたを楽しみたい。負けているときの予想には熱が入るし、最終レースで捲ったときの快感には抗えない。
それでも、月単位、年単位で勝ちたい。なんとか己をコントロールして、自分の心に嘘をつきながら、長い目で見れば勝てると信じて今日も投票する。
「強いメンタル」なんて、言うのは簡単だ。実践しているフリも簡単である。自分に嘘をつき続ければいい。別に外したって気にならないし。この方法であっているし。年間で勝てればいいんだから。そう言い聞かせれば、心が乱れていない「フリ」はできる。
我々人間は、自分に嘘をつくのがとても上手だ。自分に正直であることがとても苦手だ。愚かで、醜くて、どうしようもない自分を、真正面から見つめるのは辛い。逃げ出したくなる。ギャンブルという、およそ人生の大部分を占めていないであろう遊戯ですら、我々は尊厳を持って取り組んでいる。誰かに責任転嫁をして、自分に嘘をついて、なんとかその尊厳を守ろうとする。愚かで、醜くて、どうしようもない。そして、それは誇らしいことだ。
もがき苦しんで、試行錯誤して、自分に嘘をついてまで尊厳を守ろうとする。勝利を目指して、必死で頭を動かす。その道のりは、すべて等しく美しい。
本当に年間で勝つことが目的なのか、今一度考えよう。本当はそこではないはずだ。たどり着きたいのは、己がひとつのゲームを制したという結果や、それに付随して得られる「金銭を超えた充足」ではないだろうか。
年に1回ハガキを受け取ることではない。その途上に含まれるすべての事柄が、紛れもなくあなた自身を形成している。
今日もひとつ、足跡を刻んだ。その自覚だけでいい。
小銭の浮き沈みで勝負は決まらない。どれだけ強く、どれだけ鮮明に足跡を遺せたかだ。
死ぬときに思い出せるくらいの「途上」でありたい。
墓場に小銭は持って行けないけれど、墓場の前に足跡は遺せる。