言葉の割合
大切な人
すごく大切な人がいます。
世界でたった一人の大切な人がいます。
目の前で私と会ってくれているその時間は、私を思い出して、連絡して、メッセージを送って、場所と時間を決めて、成り立っています。
私に使われている時間が多いほど、言葉を発することが怖くなる。
話の腰を折ること、脱線させることが嫌だという思いが強くなって、発言したいと思った一瞬、口を噤むことを意識的に選んでいます。
そうすると、きっと、多くの人に伝えられなかった想いとか
実は、気づいてほしいSOSとか
熱い熱い思考とか情熱とかに触れることができます。
そんな機会をいただくことが多いです。
だからこそ、余計に、自分の言葉がわからなくなる。
相槌、頷きの正解も、魅力的だって感じているこの瞬間の感情の伝え方もわからなくなります。
結局のところ、発言は少なくなるし、共感ばかりしているように見えるかもななんて思ってしまいます。
でも、そうじゃなくて、熱を持って「伝えたい」って想っていること。
その瞬間の、瞳の輝き、呼吸の変化、言葉の変化に惹かれているんです。
好きであればあるほど、知りたくなるんです。
いつもと違う選択
今日はそんな素敵な人に想いを伝えました。
こんなことを書くと、重く感じるんだけど、
ノートとペンに力を借りながら、世の中と自分の立ち位置について。
私が考えていること、私の捉え方をお話ししました。
仰々しく、言っているけど、ただ会話しただけです。
受け入れられるかについて不安に思う間も無く話していました。
そもそも、安心できる関係が築けているから、言葉にできました。
相手との時間を大切に思えば思うほど、
自分の発言を重く、発言するっていう選択が重くなるけど、
今日はちゃんと選べました。
嬉しい。
人と人の会話
いつからか、言葉を発する割合が少なくなって
「聴くこと」に惹かれていきました。
おしゃべりな自分がいるからこそ、自分との違いと、思考の深さと、人の魅力と、人が選ぶ言葉に惹かれていきました。
その人らしさが出るし、人数が増えるほど、脱線率は高くなる。
それが共感の結果なのか、思わず発言してしまった意図しないものなのかわからないけど、コミュニケーションの一つとして、違いが曖昧なまま受け入れてしまうし、受け入れられることが面白いなと思います。
「相手の立場に立って」を徹底していると話の腰を折らないのかな?
そうでもない気がするし、コミュニケーションの特徴の一部な気もするけど、誰かとの会話で、思わず発言したくなるようなキーワードに注目するのもまた、興味深いです。
言葉の割合
共感は残酷だなと思います。
安易にしやすく、それゆえに、NOが言いにくいし、伝わりづらい。
違いが明らかになった時のショックは共感を受け取った側から考えると、
最初からNOを言われるより痛いなと思います。
だからこそ、大切な人であればあるほど、NOも言うしNOTも伝えます。
共感できないって言えるのはそれ以上の伝えたい気持ちがある時。
共感は興味も持っています。
興味があるから、曖昧な言葉にも、内容にも共感できる。
初めましてのうちは共感のもつ興味に助けられる。
ついつい、言葉と思考に惹かれてしまう私だからこそ、
言葉を発するときは空虚な割合が少なくなるように気をつけてます。
共感っていう安易なものじゃなくて、
それ以上の想いがある時は、誤解と認識の齟齬がなるべくないようにしたい。
誰かを想って言葉を綴るとき、誰かに伝えるために言葉を発するとき、
真剣に選びたいなって思います。
私の中の重要度が高いから。
具体であるほど、範囲が狭くて
抽象であるほど、範囲は広い
ついつい曖昧になってしまうけど、
要素の関係と、構造が私の中の位置づけとより近い形で伝わるように
できるだけ、言葉を感情に近づけます。
空虚な割合を、誤解の割合を減らしたくて、ついつい曖昧になります。
もう少し、自分の思考と言葉の差を受け入れることができたら
曖昧さが減る気がします。
それまでは、考える、聴く、考える日々。
最高に幸せだし、聴く自分を選択できるようになった成長を嬉しく想っています。
独特かな。
独特って言われすぎて、こう言うところが分かりづらいのかななんて思ったり。
とにかく、今日は、言葉に魅せられて、人に惹かれている私が安心して
言葉を選べたし、満足できる範囲内で伝わるように伝えられた日。
ほんとにありがとう。
出会えてよかったです。
幸せな1日になりました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?