【日記】創作の区切り、人生の区切り
和田たけあき氏の楽曲に「さいごのよるのきりん」といったものがある。
私はこの楽曲のサビ終わりの「私の願いはもう叶って終わっている」というフレーズが好きだ。氏がどういった思いを込めたのか私に推しはかることはできないが、このフレーズを初めて聴いた際には以下のように感じた。
「自分の願いが叶ったこと」
「願いがすでに終わりを迎えていること」
※願いが「叶うこと」と「終わること」はイコールではない
これらを認識することは非常に難しい。それゆえ「私の願いはもう叶って終わっている」と言い切ることは難しい。それにも関わらずそれを言い切れる、人としての心のあり方といったものの純度の高さに胸を打たれた。
初めて聴いたときからすでにそれなりの年月が経っているが、このときの感覚は今も胸に残っている。
さて、それなりの年月を通して、それなりの経験を通じて、それなりの考えも持つようになってきた。そして、なんとこの度、上記の「自身の願いが叶い、終わりに至っている」状態に(至ろうと思っていたわけではないのだが)至った。
大した達成感はない。虚無や現実逃避の局地に至ったわけではない。ただやることをやっていたら至ったのである。
具体的には4月にあった初個展の準備中である。当時は単に忙しくて考える余裕がなかったからと認識していたが、日々を過ごしていたらそうではない確信が明確になってきた。
元々、欲深い方ではなかったが、「でかいことをしたい」「たくさん〇〇がほしい」といった積極的に他者に影響を与えたり、他者からの欲求の対象になるといった願望が「無」になった。
それは「いい歳をして非現実的な願いを持つのははしたないからそこそこなところで現実を見ろ」と言った「矯正」によるものではない。
求めるものはおおよそ手に入るし、願うまでもない。自分の願いとされるものはもう「起こる」ことがない。今後の自分の行動は自分がただ単に「そういった生き物だったから」のような理屈ではない部分で決められた、そんなものにすでに成っている。そんな感覚があるのだ。
そのとき明確に「私の願いはもう叶って終わっている」というフレーズを理解した。
思うに、自己の在り方が明確になり、思考や行動がそれに同期していった際に今回のような「願い」からの解放が起こるように思う。
「在り方」が知識のレイヤーでなく、思考や行動にも同期されると存在としての固定がなされ、もはやそう「在る」ことしかできなくなる。たぶん自分はそう成ったのだと思う。
人間は長く同じ在り方を続けるものに価値を感じる。
雄大な自然やその産物はもちろん、現在の生活にも根付いている思想や技術。それらの価値はそれらの生み出すものの大きさにも起因するが、移りゆく時間や時代の中で同じ在り方を続けることが難しいからこそ、変わらず在り続けること自体に価値が生じる。
そんな存在を夢みて、他人の役に立つことや誰かの特別な存在になることを目指し、続けていくことがあるだろうが、価値を残すことを目的として生きていくには人間の一生はあまりにも短く、無意味で、無価値だ。そもそも本質的な価値などは無形、有形問わず、何物にも宿っていない。
世の出来事全般に演劇のような虚構性を感じ、現実とは何たるかを客観のフィルターを通してうかがいしれなくなくなったとき、始めて人間は「作られたもの」に没入しその価値を存分に味わえるように思う。
私は作品を生み出してはいるが、価値を生み出してはいない。
私の作品について、その虚構性と無価値の壁を乗り越えて、さらなる没入と価値の産生を行える。そんな人間との邂逅を今後の楽しみと見据えて、これまでの人生と区切りをつけた。そんな夜であった。
終わり