弱者のメンタリズム


英弱の思考。自己紹介みたいなところもある。


今日共用スペースで料理をしていたら、そこにはポーランド人の男とアジ専の女がいた。アジ専の女に絡まれ、三人で会話をする羽目になった。話の流れで日本の雇用について聞かれ、私はそれについて話すことになった。が、私は説明ができず黙ってしまった。私は簡単な英語しか話すことができず、絵にかいたような沈黙が流れた。フリーズしていたのだ。するとしばらくして彼にどう学校でコミュニケーションをとっているのかと言われた。いまだうまく言葉が出なかったところをアジ専の女にかばわれた。彼は英語を勉強中で仕方ないのよ、といった感じだと思う。私は買い物行かなくちゃ、などといい出来るだけ早くその場を去り、自分の部屋でしばらく放心していた。

この小さなイベントは文にすると大したことがないように見えるが、私を凹ませるには十分だった。自分がコミュ障のカスみたいに扱われて、さらに自分より下の女(スト低。母国でモテない白人はアジア圏に関心を持つという説を私は少し信じている)にかばわれたことが私のくだらないプライドを傷つけたのだ。また、大学でうまく振舞えてないことも事実で、改めてその事実を指摘されて憂鬱になった。

私は無駄にプライドだけが高くて努力をしていない自分が嫌いだ。変わりたいと思っている。ただ、一方でこれは無意識に最善の行動をしているのだと思う。本気でコミットして通じなかったら2度と立ち直れないだろうし、みんなが楽しく会話をしている中ひとりで部屋にこもって勉強するのも違うだろう。プライドが高くなっているのも同様で、実力も自信もなければ淘汰されてしまう。虚栄心が私のメンタルを保っており、一つの防衛手段になっているのだと思う。

努力というのは、努力することそれ自体が目的になっていないと伸びないと思う。目的に合わせて何をするかを決めなければならないが、それをすること自体を楽しめなければ長くは続かない。英単語を覚えることに喜びを感じ、腕立てをしその疲労を楽しめなければ3日坊主になるように思う。その瞬間はハイスコアをとることや筋肥大という報酬をえられないのだから。
 私の経験で言えば、私は小さい頃からサッカーをしておりそれなりにうまい。しかしそれはサッカーがうまくなりたいからサッカーをしていたのではない。ただボールを蹴るのが楽しくて、ボールを追っかけまわしていたらうまくなったのだ。しかし、英語に関しては、同じように英語を勉強すること自体で報酬を得られないのだ。英語力が上がったという高揚感はネイティブとの会話で一瞬になくなってしまうからだ。

 その事実に加えて、得られるか分からないものを追わなくなったのは私の受験期の記憶によるものだと思う。それなりの努力にもかかわらず望む大学に進学できなかったことだ。私は一浪の末、大したことのない私大に行くことになった。その一年は、人にはできないことがある、というたった12文字の事を学んだに過ぎなかった。私は何かに全力を尽くすことをしなくなったように思う。今回の件についても、ただ英語を勉強するだけのことなのだが、なにをすればよいかわからない。音読をしても語彙を増やしても対等に話せる気がしないし、ネイティブ同士の会話に入っていける気がしないのだ。何をしようとしても私の獲得した経験がそれを邪魔する。ただ報酬がない(であろう)ことに無限の努力をできない、と。

これはただ私が怠惰なだけなのだろう。その事実は理解している。私は怠け者である、ということのためにだらだらと駄文を書いてしまったが、この怠惰が何から来るのか言語化したかったのだ。

無論このままで終わる気はない。手段を模索しながら手段を楽しめる努力をしていくつもりだし、この機会を生かして日本ではしていなかったことを多くしていく。

風俗やナンパ、恋愛についても書こうと思ったが、それは別の機会に。

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