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与えられる事


※2020年12月に書いたものです

この時期になるといつもモヤモヤした気持ちを思い出す。
12月26日は亡くなった母親の誕生日だったのだけども、我が家では自分も含め誕生日を祝うという習慣が無かった。更に言えばクリスマスも祝わないし、お正月もせいぜいお雑煮を食べるくらいで、特別に盛大に祝う的な事は特にやった記憶が無い。

ああ、一度だけ謎に誕生日を祝われた事があった。確か5〜6歳位の頃に母親の知り合いの喫茶店みたいな所を貸し切って、自分の知らない人が何人も集まって、料理やバースデーケーキやプレゼントを貰った記憶がうっすらとあるのだけども、後にも先にもこれ一回きりで、それ以外ではお祝いみたいな事はされていない。全く無いならそういうもんだと思うが、一回だけ特殊にあると、あれはあれでなんだったんだろう?と逆に印象に残る。嬉しいというよりも只々謎な1日だったという強烈な印象が心に残った。


小学生の頃に、無知な誤ちを犯した事があった。友人の誕生日会みたいなものに御呼ばれした時に、誕生日プレゼントを用意しないで行って大恥をかいた記憶が鮮明に残っている。普通に考えればプレゼントを用意する事は当たり前なんだけれども、自分がプレゼントを貰わないからなのか、プレゼントあげるという概念がポッカリ抜けてしまっていた。
その時は咄嗟に家に忘れたと嘘をついて、文房具屋に飛び込み、筆箱やシャーペンを買って持っていった気がする。そのプレゼントに対して全然喜ばれなかった事は覚えている。


とはいえ、祝わない事が当たり前だった我が家ではあったが、それでいいとは全く思ってはおらず、例えば母親の誕生日には何度か欲しい物を聞いてみたり、何をして貰えたら嬉しいかを聞いてみたりはした事があるが、おおよそ帰ってくる答えは「余計な事をしなくていい」だった。

親に与える余裕が無かったからだという事も大人になった今では充分に理解しているし、おそらく母親も幼少期に同じように「与えられる」事が足らずに親になったのだと思う。
そう、これは親から子へ向かう「負の連鎖」なんだと。


そんな環境で育ったからか、自分も「何かをして貰う」事が苦手だ。「ありがとう」の前にどうしても「して貰って悪い」という感情が出てきてしまう。
そして、逆に自分が誰かに何かをしてあげようとする時に、相手が「して貰って悪い」や「余計なお世話」と思うのではないかと不安に襲われる。

この気持ちの根底は、振り返ると幼少期に「何かを与えられる」という体験が少なかったからでは無いかと思っている。
人が自分の為に100%善意で与えてくれているのだ。喜んでいいし、ありがとうという気持ちを素直に見せればいい。そんな体験が不足していたからでは無いかと。
与える事は嬉しい事だ。だから、して貰った事は返せば良い。与え与えられの正の連鎖が人との関係性を豊かにする。


分かってはいるけれども、心のどこかに棘のように残る、負い目のような気持ち。


大人になって大分矯正できたつもりではいるが、今でも、何かを「して貰う」事や「してあげる」コミュニケーションは苦手意識がある。この負の連鎖を自分の代でどうにか断ち切りたい。
これから生まれてくる自分の子供には少なくとも、人に感謝する気持ちや、人に進んで親切にする気持ちに迷いを持たぬよう、存分に与えてあげたいと思う。


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