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ストリートアートの批評性

昨日、バンコクのストリートアートを巡ってみた。なかなか興味深く、また、作品によっての良し悪しについて、当然ながら描かれた場所との関係性から批評する必要があるということを感じた。そこで、改めてストリートアートについて調べてみようというのが、この記事だ。

ストリートアートとはどのような存在なのだろうか。まず考えられるのが、サイトスペシフィック・アートとしての位置づけだ。サイトスペシフィック・アートとは、作品を文脈から切り離し、さらに美術市場において高値で取引する美術館のホワイトキューブ空間に対する批判に呼応して始まった、その場所に存在することで意味を持つアートである。地域に根ざす、ということは、近代的な普遍性を拒絶することでもあり、反近代、もしくは近代を乗り越えるものとしての意味を持っている。

ストリートアートもまた、その地域の歴史や文化を背景に、その地域ならではの表現を展開する。ここから切り離して美術館に飾ってしまっては、その魅力は半減してしまうだろう。たしかに、一部の芸術家のストリートアートはストリートから切り離されて美術市場で流通しているが、本質的には、地域に根ざした、サイトスペシフィック性をもっている。

こうした近代的な均質空間であるホワイトキューブに対する批判に加えて、今日は、もうひとつの批判の文脈について紹介したい。それが、「アートワールド」批判である。

アーサー・C・ダントーは、『ありふれたものの変容:芸術の哲学(英:The Transfiguration of the Commonplace: A Philosophy of Art)』のなかで、アンディ・ウォーホルの《ブリロ・ボックス》などを例に上げ、なぜありふれたものが芸術になるのかを解き明かす。

ブリロとは、家庭用の食器洗いスチールウールのパッドで、ウォーホルはそのパッケージを精密にコピーしてみせた。普通のブリロは芸術になりえないが、文化的文脈に置かれることによって、ウォーホルのそれは芸術になるのだと、ダントーは考えた。ウォーホルの作品を芸術に仕立てる意味的空間を、「アートワールド」と呼んだ。このアートワールドは、ホワイトキューブの中に充満する、あの空気だ。

アンディ・ウォーホル《ブリロ・ボックス》1964年

先日、壁に貼られたバナナが9億円で落札されたのが話題になったが、これもまたアートワールドのなせる技である。アートワールドは、「ありふれたもの」を変容させる強力な現実歪曲空間(英: reality distortion field、RDF)として機能するのである。まあ要は、高く売れるのだ。

そのアートワールドに対する批判としても、ストリートアートは機能する。そのことを議論したのが、ニック・グリルであった。グリルは、ダントーの書名である「The Transfiguration of the Commonplace」を文字った『The Transfiguration of the Commonplaces』すなわち「共通の場所の変容」という副題をつけて、ストリートアートについて議論した。グリルは、ストリートアートが、(ウォーホルの作品とは違って)しっかりとアートとして認識できる視覚的特性を保持する。その点では、ウォーホル以前のモダニズム芸術的ではあるが、それを生活の場面に展開したところに新しさがある。

グリルは、ストリートアートを、次のように定義する。ストリートを芸術的資源として使っており、また同時に、ストリートにあるがゆえに、汚されたり、盗難されたり、破壊されるリスクを引き受ける「はかなさ」をもつことだ。また、ストリートアートを批評するには、単なる形式主義的なアート批評(作品の視覚的特性だけに注目する)では十分ではなく、公共空間の使用が作品の意味にどのように寄与しているかを考慮する必要があるのだという。

ホワイトキューブにおかれた、アートワールドに包まれた芸術に対するアンチテーゼとしてのストリートアートは、ブリロのような「ありふれたもの=Commonplace」を、美術館のような特別な場所に置くのではなく、視覚的に芸術と認識できるものを、ストリートのような「ありふれた場所=Commonplaces」におき、そのストリートの関係性によって評価されるものなのである。

ストリートアートは、その地域性と公共性を核として、芸術の新たな可能性を切り拓いている。サイトスペシフィック性を持つストリートアートは、近代的な均質空間であるホワイトキューブへの批判として機能し、美術市場に依存しない独立した価値を提示する。一方で、アートワールドが持つ「現実歪曲空間」と対峙しながら、ストリートという「ありふれた場所=Commonplaces」に根差し、公共空間の中で作品が意味を持つことを追求する。

その存在は、ウォーホルがアートワールドの文脈を通じて「ありふれたもの=Commonplace」を芸術へと昇華したのとは異なり、公共空間そのものを芸術的資源とし、地域社会の中に留まり続ける。その結果、ストリートアートは汚れや破壊といった「はかなさ」を受け入れることで、地域や人々との生きた対話を生む場を提供するのだろう。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師

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