エゴの置き場所
昼食から教室に戻る道すがら、岩澤先生との会話でパッとでてきたのが、この「エゴの置き場所」という言葉だ。
ひとりひとり、エゴを持っている。このエゴの根底には、生物は必ず持っている、「生き延びる」という原始的な本能、欲望の古層がある。この欲望をあまりに全面に出しすぎると、社会生活がうまくいかない。人間のコミュニティにおいて、しばしばその置き場所に苦慮することになる。(だから、動物の捕食シーンに私たちは見とれてしまう。)
大勢の前でのプレゼンテーションでは、エゴをどこにおいているのか、はっきりと伝わってしまう。手に持つ人、顔に貼り付けている人、ポケットに忍ばせている人、カバンの奥底にしまって隠蔽している人。いろんなエゴの置き場所があって、その人の個性が出る。
顔に貼り付けている人のプレゼンは、すごい迫力を持つこともあるが、空振りすると目も当てられない。隠している人は逆に、まるで根無し草のようにプレゼンに迫力が出ない。一番いい置き場所は、自分が立っている場所の足元、床下20cmくらいのところだと思う。水をやると芽を出して、それなりの木が生えてきそうな場所に、種として植えるイメージだ。
フロイトは、意識と無意識で構成されるこうした自我を「エス」、「エゴ」、「スーパーエゴ」の三位一体で捉えた。エスは、エゴの根底にある欲望の古層で、リビドーや死の欲動を発生させる。スーパーエゴは社会的規範を内面化し押し付けてくる。そのバランスの中でエゴが立ち振る舞っている。たいへん苦しい。欲望をさらけ出しても、去勢されすぎても、居心地が悪い。
プレゼンテーションは、そうしたバランスを発露する場所だ。私が習っている能は、型という規範によって制御された、生き生きとしたエネルギーを表現する。厳しい制御の中にあるからこそ、そこにとどまれないエネルギーが輝く。止まっているように見えて高速に回転しているコマのように躍動している。「かっこよく見せよう」という思いが先立つと、とたんにコマは倒れてしまう。
その能の典型的な所作に、すり足がある。私の先生は、わざわざすり足をするよう指導はされない。私の理解では、能を学ぶ中でしっかりとしたすり足が、結果としてできるということだと思う。すり足は、舞台との接地の問題であると同時に、ある種記号的な所作をどのように感情に着地させるかという記号接地問題(Symbol Grounding Problem)に対する回答である。すり足によって、舞台が感情に接続するのだ。
記号接地問題。AIは記号だけを扱って文章を紡ぐため、たとえば「蒸し暑い」という言葉の意味する現実に接地しない。この拭いきれない違和感が、AIの限界のひとつとされている。文化的規範もまた、そのままでは欲望の古層に接地しない。だからすり足だ。横綱のシコでもよい。優れたプレゼンテーションもまた、すり足なのだ。
エゴの一番いい置き場所は、自分が立っている場所の足元、床下20cmくらいのところにあり、短いプレゼンテーションの時間の中でも大きく枝を広げる。ときに、天まで届く。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授