「言葉」に救われたいのに。――「青春の全体主義」概念の提唱――
初めまして。竹馬春風です。大学で情報学を学びながら趣味でボカロ作曲をする19歳理系人です。
この文章は、大阪大学感傷マゾ研究会の刊行する会誌『青春ヘラ ver.1 「ぼくらの感傷マゾ」』に、会員として投稿した文章の一部抜粋です。完全版は、是非会誌をお買い求め頂けると(僕というより会長が)助かります。
〇 救済、僕、君
我々は、救済を求めている。
「感傷マゾ」に共感し、此処に居座る覚悟を決めた僕も。「感傷マゾ」との邂逅、あるいはその新たな観念との邂逅を期待して、この一頁を捲る君も。また別の何かに動かされ、囚われながら生きるあらゆる人間も。
救済を求めている。
そして特に、ホモ・サピエンスをホモ・サピエンスたらしめた「言葉」というものによる救済は、力強い。
一 青春コンプレックス、大学生、高校生
大学生。その響きに憧れを持っていた時期もあった気がするが、今の僕にとっては「大学生である」ことよりも「高校生でなくなった」ことのほうが実感されやすいのである。高校生の終わりを青春の終わりだと勝手に線引きしていた僕は、いつしか新たなステージの始まりに目を向ける暇を無くしていた。
大学生。世間では青春の真っただ中だと思われていることもある。実際「モラトリアム期の延長」というのは現代の発達心理学でも論ぜられていることである。そして僕の周りの大学生は、青春しているように見えるのである。
そんな大学生が抱える「青春コンプレックス」とは如何なるものなのだろう。
青春コンプレックスは、字義通り、思い通りの青春ができなかった自分の過去に対して、後悔・欲求・記憶などといった複雑=コンプレックスな感情が生起することである。青春ができ「ない」ではなく、でき「なかった」を主張するには、その主張者の青春が終わっている必要があるはずだが、大学生は果たして終わっている側に分類されるべきではないだろう。そこが恐らく、僕のような十八歳が青春コンプレックスを掲げることに対する違和感の所在である。
大学生という年齢層を特殊化する必要はないかもしれない。高校生も、中学生も、歳なんて知りようもない君も、青春コンプレックス自体いつでも会得しうるものだと、僕は考えている。コンプレックスの決定的な要因「時間の不可逆性」は、個人的体験でなく普遍的事実だから。
コンプレックスの要因は、右に述べた通り時間の不可逆性だと考えるが、とりわけ「青春」へのコンプレックスを考えるとなると、どのように青春を定義するかについて考えなくてはならない。いや、厳密な定義を与えようとする理系人の性は此処では通用しないかもしれない。いずれにせよ、青春の定義に「模範解答」のような何かが与えられつつあることを此処では指摘しておきたい。青春は、「全体主義」に奔りつつある。
二 青春の全体主義、ハッシュタグ、イデア
「青春の全体主義」という言葉は、僕が某対談において咄嗟に呟いたものである。詳しい意味づけは後述するが、大衆によって青春の理想像が画一化・権威化され、それに当てはまらないものを自己排斥する、という構図から連想した。「青春ファシズム」「青春の衆愚政治」などと逡巡した結果、より一般的な「全体主義」を用いることにした。
青春という単語には、色の名称と季節の名称しか含まれていない。それなのに、青春というと特別な年齢層や行動、ないし風景を想起するのは興味深い。その年齢層・行動・風景は、本来「青春」という単語が明確に定義されていないだけに、十人十色であっていいと思う。
しかし、その線引きにはある程度の常識がある。大学生は青春であり、会社員は青春でない。恋愛は青春であるが、結婚は青春でない。勤勉は青春であり、怠慢は青春でない。僕は、これらの常識に正誤判断を下したくはない。ただ、これらを前提とした文脈が散見されるのは確かであろう。
僕が特筆したいのは、その線引きに「理想像」が加わり、一層明確になってきていることである。言い換えると、青春という語に個人差が無くなりつつある。先端技術の持ち腐れとして、ある場面が青春であるか否かを判定するという人工知能がいつか誕生するのではないかと危惧するくらいに、青春がwell-definedに近づいている。その青春の定義は、プラトン哲学における「イデア」に似たものであり、今は明確に言葉にできない。どこにもない理想像なのかもしれない。しかしそれが共通認識となっている。
例えば、青春の季節として人々は夏を想起する。青春の時間帯や場所として人々は放課後の空き教室を想像する。青春の構成人員として人々は十六・十七歳くらいの少年少女を想起する。もちろん青春がこれらによって定義づけられているわけではないのに、これらが青春という無限集合の元であることは言えてしまう。
更に興味深いのは、「青春か否か」のタグ付けの重要度が増してきていることである。二〇一〇年代のSNSを代表するInstagramやTwitterの一大機能として「ハッシュタグ」があるが、その影響もあってか、青春かどうかの判断にはより敏感になっているのではないだろうか。「今の場面、青春かも」という、自らの行動へのタグ付けが、今まで以上に積極的に行われている。
以上をまとめる。十人十色だったはずの青春に、理想像が付与され、画一化されて、積極的に行動基準として利用される。このような現状を、僕は「青春の全体主義」と呼びたい。
「全体主義」という物騒で批判的な語を用いているのは、実際この現状を批判する意図があるわけではない。しかし、三章および四章で述べる、この現状に至った来歴と招く結果を鑑みると、僕が思う現在の青春が「全体主義」たる所以を君にも少し共感してもらえるかもしれない。
(中略)
五 根本的な部分、ただ、「言葉」に救われたいのに。
どうして「青春」を全体主義的に利用するようになったのだろうか。その根本的な部分を、最後に此処で述べておきたい。僕は、青春の全体主義の根底にある心理を「言葉による救済への渇望」だと考えている。
自分の居場所が何処か、自分はどう特別なのかというアイデンティティの課題は、青年期という発達段階において顕在化する課題である。それを見失うこと、つまりアイデンティティ拡散は、心身の発達に大きな影響を及ぼす。そういう意味で、自分のアイデンティティを安置する場所という「救済」を人々は渇望するのである。特に自己意識の揺らぎやすい青年期では、その渇望はより強くなる。
自分とはどういう存在か、という切実な問いを立ち消えさせるもっとも明快な方法が、「言葉」を与えること、即ち、「君は○○だよ」と言われることである。明確な分類に所属すること以上に精神的な安心感が与えられることはないだろう。
その「言葉」としてふさわしいものの一つが「青春」だったのだろう。
「それは青春じゃない」という排斥が怖くて怖くて、そして、「君は青春してるよ」という救済が欲しくて欲しくて。「分類されたい・言葉を与えられたい」という、そのような単純明快な心理は、もはや本能的なものなのではないかと思う。文法構築が可能な言語を獲得したのは、現時点ではホモ・サピエンスだけである。言語の最も強力な機能は、自分の認知する世界を分節化する事である。自分を取り巻く世界を分類することを学んだ人類は、遂に自分自身も分類されていることを希うのだろう。
ただ、「青春」という言葉に救われたくて、
今日も少年少女は部活帰りの夕空をインスタで「#青春」と付けて投稿する。
(後略)