楽園―Eの物語―四年前、春には遅く夏には早い楽園で
「只今帰りました」
セランの実家から帰宅したドラは、居間の扉を開けて驚いた。
右手には乳母として育て上げ、独立後も住み込みのメイドとして仕えている、セラン=コラッド。
生まれた時から三十路半ばの今日まで、完璧に美しい国立学院の教授だ。
リュートの名手で歌も作るが、ルージュサンと出会ってからは、その殆どが彼女の讃歌だ。
隣にはそのルージュサン。
子爵家の養女として貿易業に辣腕をふるい、義弟の成長を待って家督を譲った船育ちの拾い子。
その上遠い東にある、カナライ国の王女だったという、賑やかな経歴の持ち主だ。
見た目もそれに相応しい、真っ赤な巻き毛で、その美貌と相まって桁外れの存在感を放っていた。
今はセランの妻として、そして双子の赤ん坊、オパールとトパーズ、愛犬のフィオーレの母として、眼差しに優しさと深さも加わっている。
けれど左手に立つ、いかにも姫様らしい女性には、見覚えが無かった。
豪奢なドレスがよく似合う、可愛くも美しい女性だ。
ルージュサンに似ているが、雰囲気が全く違う。
後ろには騎士然とした四十絡みの男と、侍女然としたまだ若い女が、異国の装束で控えていた。
「「お帰りなさい、ドラさん」」
セランとルージュサンが同時に返す。
それはいつも通り、とても心地よいハーモニーだった。
「こちらはフレイア殿。ルージュの異母妹です」
セランが笑顔で紹介する。
「フレイアです。夫の喪が明けたので、自由を満喫しに来たのです。宜しくお願いしますわ」
ドラがひざまずいて礼を取った。
「住み込みのメイドをしております。ドラと申します。不調法ゆえ、無礼の程は何卒ご容赦下さいますよう、お願い申し上げます」
「わたくしは嫁ぎ先から、直接こちらに来ましたの。今は身分など無い身ですわ。居候の庶民に過ぎませんの。そのように扱って下さいませ」
フレイアは屈んで、優しくドラを立たせた。
「左後ろは、嫁ぐ時カナライ国から付いてきたナザル=アージュ、お姉上達の知人でもあります。右後ろは嫁ぎ先のサス国を出るからのユリア。どちらも生涯従者です。宜しくお願いしますわ」
―生涯従者?―
ドラは頭の隅から、滅多に使わない知識を引っ張り出した。
大金を一括で受け取って、その後一生仕えるのだ。
ドラの目に気の毒そうな色が浮かんだ。
「私にはとても光栄なことです。護衛と下働きを致します」
ナザルが誤解を解く。
厳つい身体に似合わない、人懐っこい笑みだ。
「私は世話したかった。家事もします」
ユリアがたどたどしく話す。
この国の言葉を、まだマスターしきれてないのだ。
「失礼しました。メイドのドラです。色々教えて下さいませ」
三人がにこにこと笑みを交わす。
ルージュサンがフレイアに目を向けた。
「ところでフレイア殿、居候の庶民としてと仰有いましたね?本当にそうなさるおつもりなのですか?」
「あら姉上、いえお姉様。もちろんですわ。ですから『フレイア』とお呼びください『フレイア』と」
「ではフレイア、居候の庶民と言いましたね。本当にそうするんですか?」
「もちろんですわ、お姉様。ですから何でも致します。まずはドラさんのお手伝いかしら」
ドラが目を丸くして首を振った。
「とんでもないことでございます!アンという通いのメイドもおりますし、私の娘も使えます。手は十分に足りております!」
「わたくし達が住まえば、仕事も増えますわ。ユリアとナザルに加えて、わたくしもいれば鬼に金棒。余った時間は、赤ん坊達とお昼寝でもなさいませ。あの二人はお兄様達によく似て、とても美しい。見がいもありますでしょう?ああ似てるといえば、犬のフィオーレもお姉様に似てますわね。拾ったいきさつをナザルから聞いていなければ、お姉様の不倫を疑うところです」
ルージュサンが微笑む。
「そうですね。拾ったのは結婚前ですから、不倫は成り立ちません」
「えっ!?じゃあ結婚前にそういう関係に!?」
セランの顔色が変わった。
「種も違います」
ルージュサンの笑顔に苦笑が混じる。
「愛が種を越えたんですね。僕と出会う前に産んだんだ・・・」
セランが呆然とする。
「愛は種を越えるかもしれませんが、種の身体の秩序を越えるのは、極めて限定的でしょう。百歩譲って産んだとしても、どうして遠いカナライで野犬になっていたんですか」
セランが大きく頷いた。
「ルージュでも解けない謎があるんですね。でも大丈夫。覚悟は決めました。今、この時から、我が家の長女はフィオーレです」
セランが高らかに宣言した。
目を白黒させているユリアを見かねて、ナザルが収集に乗り出した。
「そもそもルージュサン様は、フィオーレを産んでないんですよね?」
「勿論です」
「そうゆうことです。ご安心下さいセラン様」
セランが激しく瞬きをする。
「そうなんですか?ルージュ」
「当然です」
ルージュサンは苦笑を消し、フレイアに向き直った。
「そんなことよりフレイア。貴女は掃除をしたことがあるのですか?」
「掃除?馬のブラシ掛けならお手のものですわ」
フレイアは得意気に言った。
「洗濯は?」
「身体は自分で洗ってますの」
フレイアは自慢気だ。
「調理用のナイフを持ったことは?」
「お姉様には遠く及びませんが、剣はそれなりに使えます」
フレイアはにんまりとルージュサンを見た。
ルージュサンもにんまりとフレイアを見返す。
「昼寝をするのは誰か、決まったようですね。ドラさんもアンさんも忙しいのです。貴女に教える手間が惜しいでしょう」
フレイアが眉間に皺を寄せた。
「わたくしは能無しということですの?」
「いいえ、時間がかかるということです」
「では、やはり姪達の世話ですわね」
「それは駄目です」
ルージュサンの顔から表情が消えた。
「けんもほろろですわね。頬に名前を書こうとしただけじゃありませんか」
「髪の色で見分けがつくでしょう?」
「薄暗かったら判りにくいわ。第一名前を書こうとしたのは、プレゼントを付けさせてくれないからですわ」
「生まれて半年の赤ん坊の耳に、突然針を突き刺そうとするのを、見過ごすわけにはいきません」
「名前と同じ石で作った、ピアスですのに」
フレイアが頬を膨らませる。
「身体に傷をつけずに、石を身に付ける方法があるでしょう?痛いだけではなく、傷口から毒が入るかもしれないのです。まずそれを考えるようでなければ、預けることは出来ません」
フレイアの口が、への字になった。
「では一体、何を手伝えばよいのです?」
「私の商いではいかがですか?」
「商い?結婚して国立学院に編入して双子を産んで。どこにそんな暇がありましたの?」
「事情があって、農作物を少しだけ取り扱っているだけです。それでも色々学んでもらわなければなりませんが、よろしいですか?」
「望むところです」
フレイアが大きく頷いた。
「私はスパルタですが」
「受けて立ちますわ」
フレイアが顎を上げる。
「それは頼もしい」
ルージュサンが楽しそうに笑った。
「まずは旅の疲れを、と、言いたいところですが、セランの継母に紹介させて下さい。すぐ近くです。馬車を使うまでもありません」
「継母・・・ローシェンナのことですね」
フレイアは手を叩いた。
「カナライで会った時に、お兄様から聞きましたわ。再婚して一年で旦那様を亡くされたとか。あと確か出会った時に、旦那様と二人で雷に打たれたんでしたわ。なのにお元気で、布問屋を切り盛りなさっているなんて、丈夫な方もいたものだと、感心しておりました」
「それは物の例えです。雷に打たれたように感じた、ということです。私は元々ローシェンナの友人ですから、直接話を聞いています」
「そうなんですかっ!?」
叫んだのはセランだった。
「父上も継母上も無事だったので、随分上手に打たれたものだと思ってました」
ルージュサンが溜め息を吐く。
「貴方は書物には強いのに、どうしてこうも、会話には弱いのでしょう」
途端にセランが笑顔になる。
「はい。書物なら任せて下さい!」
堪えきれずにナザルが吹き出す。
セランが怪訝そうに彼を見た。
「本当ですよ。天文学といっても、空を眺めるだけではありません。そしてものの理を探るには、多彩なアプローチを検討することもあるのです」
ナザルが慌てて笑いを引っ込めた。
「失礼しました。けれどもそういう意味ではなく、ルージュサン様の言葉が、あまりに的を射て、あ、これも又」
セランがぱっと顔を輝かせ、ナザルの言葉を遮った。
「そうでしょう、そうでしょう。ルージュは本当によく見てて、僕をいつもフォローしてくれる、自慢の妻です。あ、ルージュって呼んでいいのは僕だけですからね。僕だけの特別な呼び方なんです。ね、ルージュ?」
セランが不意に、ルージュサンの唇を狙う。
寸前でかわしたルージュサンは、無表情だ。
「なにを照れているんです。これから一緒に暮らすんだから、いちいち気を遣っていたら、身が持ちませんよ。けれども照れている貴女も、少女のように可愛らしい」
今度は抱き締めようとするセランを、ルージュサンが又、かわす。
「あの、ドラさん」
ユリアが小声でドラに尋ねた。
「いつも、これですか?」
「いえ、少し違います」
ほっとした様子のユリアを見て、申し訳なさそうに、ドラが続けた。
「普段はもう少し仲がよろしくて、年増の私でも、目のやり場に困ることもしばしばです」
ユリアが困り顔でフレイアを見る。
「大丈夫ですか?フレイア様」
フレイアは鷹揚に頷いてみせた。
「わたくしも看病の時は、手を握りましたわ」
フレイアは夜の無い結婚だったのだと、ドラも察した。
そしておずおずと訂正する。
「おそれながら本当は、少しどころか大いに違うのです。しばしばどころか・・・」
ユリアが頬に両手を当てた。
「かかって来なさい!」
フレイアが真っ赤な顔でそう言い放ち、腰に手を当て反り返る。
ドラは心の中で深く、深く、溜め息を吐いた。
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