自分を殺すということは周りの人全員を殺すということ。
友人は兄を自死で亡くしている。
その事実を知ったのは、友人歴何年か経った後の冬のことだった。しかも、酒の力を借りて。
友人は、兄が死ぬ前日に言った一言をずっと後悔していた。
「死んだらいいのに」と言った言葉を。
そして、兄は死んだ。
私はお兄さんではないが、きっとその一言で死んだ訳じゃないと思う。本人じゃないから確証は全くないが。
しかし、友人は何度も何度も言った。
「あんなこと言わなきゃお兄ちゃんは死ななかった」と。
友人は、今までもこれからもその重みを抱えて生きていくのだろう。そして、他の家族も。
真っ当に生きているフリをしているけれど、心の奥底にある傷は膿と血が滲んでいる。その傷は医者にも、私にも治せない。
そんなことを目の当たりにした。
ある芸能人が死んだ後、自殺者の数が増えたという。
ファンじゃなかった私自身、テレビの「彼はいい人だった」「努力家だった」という遅すぎる賞賛のニュースを見ながら心が痛んだ。
「こんないい人でも死ぬ世の中なんだな」と。
自殺者が増えるのは、私にも予想ができた事実だった。
きっと彼は死んだら全て終わりになる、と思って死んだのだろう。でも、彼に「楽になった?」と聞いても返っては来ない。
そして、周りの私たちは彼の辛さを抱えてしまう。
「人は皆孤独だ」とどこかの偉い人が言ったらしい。しかし、本当にそうなのだろうか。
人との繋がり。
「縁」だとか「血」だとか。
縁を切っただなんだの言っても、その繋がりは消えない。だって、顔が似ていたり、性格が似ていたり、食の好みが似ていたり。
では、血が繋がっていなきゃいいのか。
というと、そんなことはない。
名前も知らなくても、顔を知っている。名前は知っているが、顔を知らない人もいる。
それは皆「縁」である。
引きこもっている人に繋がりはあるの?と聞く人がいるかもしれない。
しかし、今はネットがあるし、ゲームやSNSで人と繋がることができる。そして、生活を支えてくれているのはきっと「家族」で、その供給に頼って生きている。
人は一人で生きているようで、一人で生きていない。
「縁」なんて、蜘蛛の巣のようだと思う。
大勢の人に出会えば出会うたび、それは大きなものになる。誰かが引っかかって迷惑を掛けるかもしれない。あったら嫌なものかもしれない。
大きければ大きいほど、それは「責任」となる。歳を重ねれば重ねるほど、増えるだろう。
だからと言って、若ければ責任なんてないのかというとそれも違う。赤ちゃんが死んでも、泣く人がいる。テレビのニュースで見たことがあるだろう。
言い換えると、人間とは「思い出」が積みあがったジェンガなのかもしれない。時間と共に、なくなってしまうものもある。しかし、枠組はしっかりと残って自分を支えている。例えば、褒められた経験とか、好かれた経験とか。
倒れた時、それは大きな音を立てる。ピースが散らばる。そして、横に積み上げられたジェンガが崩れるかもしれない。
だから、私は全てを壊す勇気がない。
人は生きているだけで誰かに支えられている生き物だ。お金、社会、吸う酸素を作り出す生産者がいて、それを享受している。そんな社会の一部に組み合わされている私達に、繋がりがない人などいない。誰かが作り出していて、それを運んでくれる人がいる。供給をしてくれる人に感謝をし、自分自身も供給をしたいと思う。
だから、辛い時には「悲しませたくない人」を思い出すようにしている。生まれながらに人は誰かに迷惑を掛けている。