『さくらの唄』著:安達哲
無神経な周囲と繊細すぎる"わたしたち"
近くて遠い正しい「青春」そして暴力団、レイプ、令和の世では見られなくなった地上げ屋。
そして芸術
今作が上梓された昭和であろうが現代でも、我々は流され、時間は進む。
私は進んできたのか、それとも流されてきたのか。
せめて、、、己の人生を歩んでいると思いたくなる。
青春時代を、どこか周囲に馴染めずに過ごしたあなたのための漫画である。
とりあえず、「自粛で暇やからええ漫画ないかな」と思う方はすぐ購入して欲しい。
それぐらいの作品なのである。
舞台とかあらすじとか
土地柄のよくない、偏差値もそんなによくない街の高校。
よくぞここまでこじらせた、と言いたくなるような思春期の権化
主人公:利彦(美術部・17歳)が通う。
こいつが主人公で、同級生の不良(かわいいものである)や猥雑な街並み、土地成金の叔父やらに振り回されつつ、アイデンティティ
を確立するという話。
この青年だか少年は、以前から絵をやっていてその部分が周囲との対比となるわけである。
「芸術=理想」と「現実」というか。
その狭間で思春期は揺れ動いていく。
あなたもそうだったように
上巻
は件の利彦の高校生活が描写される。
やったら狭い家に、嫁いだ後出戻った姉と暮らし、そこと高校を往復する日々。
淡い想いを寄せていた担任の女教師が妊娠し、ちょっとウツになりその弾みか
「すれ違う人々の視線が怖い病」が顔を出す。
なんとか家に帰り暗い部屋のベッドでオナニーするも
それを姉に見られる
そんな日々である
いや〜「視線怖い病」に覚えがある方は本当におすすめですよ
しばらくして、利彦は画塾に通うことを決めるんですけど
来る前は盛り上がったが(一人で)そこの連中の、「芸術やってますから」
といった態度やら何やらで(勝手に)(一人で)盛り下がるところは共感を頂けること請け合いです
"ガサツ"な周囲に囲まれている利彦だが、それらとは正反対の、非日常の存在ともいえる仲村真理さんと出逢う
まあ、とにかくこの娘は優しいというか教科書のようなコミュニケーションをとってくれる(etc.初対面の人には敬語、挨拶をしっかりする・・・)。
ソープやらヘルス、地上げ屋が跳梁跋扈している利彦の周囲とは段違いというわけである。
※ここも対比が効いている
どうしょうもない毎日から抜け出そうと、文化祭で仲村さんを主演に映画を撮ろうと考える利彦だが、
下巻
ではその試みがものの見事に頓挫する(その光景はあなたの目で確かめてほしい)。
実は利彦には地上げ屋をやっている叔父がおり、上巻の段階で妻とともに利彦が暮らす家に居座る。
そんなんだから貧乏だと思いきや意外に成金であり、バックに暴力団までついている。
やがて叔父は利彦に絵で生きていくことを断念させ、自分の会社の跡継ぎにさせようとする。
ここからが面白い
揺れに揺れる
利彦に跡を継がせようと叔父はあらゆる手を尽くす。
・前述した担任の女教師の旦那を借金地獄に堕とし、利彦の慰みものとする。
・叔父は芸能界にも顔がきくようになっており、芸能人も利彦にあてがう。
その甲斐あってか、女教師に「絵をやっても将来不安定」などと言われたからか、一時利彦は本格的に跡を継ごうとするが、辞めようと向かった画塾で仲村さんと会い、「絵を描こうよ」と言われ美大進学を決意する(ブレブレじゃねえか)。
とはいえ、ラクな方(叔父の跡を継ぐ)に流されず、茨の道を歩む決意を利彦がし、自分を確立していくさまは必見である。
その決意をする過程は、本稿で述べ切れる以上のものがある。
絶対共感できるで!!!
大体言いたいことは終わったので、ここからは全編通しての本作の魅力を述べて結びとする。
セールスポイント
そこまで素晴らしい人間が出てこない
皆さんは、物語を読んでいて超人というか「水戸黄門」というか、
"こいつが出てくれば万事解決"というべき人物が出てきて諸問題を解決していくのを見て、興醒めしたことはないだろうか。
なろう系の主人公みたいな、というか
「気持ちええのはそいつだけやん」と思わされるようなスーパーマン。
そのような人物は本作では皆無で、みんな何かに流されなんとか生きている。
そうだ本当に「生きている」ように見える。
聖人君子のように紹介した仲村真理さんとて、土地成金叔父に狙われた際には、その魔の手から逃れるのは容易ではなかった(仲村さんの父が叔父と取引があったとかいう都合で)し、
利彦の同級生の不良どもは、夜の街で"本物の大人"に格の違いを思い知らされ(ペニスに真珠を埋め込んだおっさんを見て絶句)、
利彦と姉はとにかく叔父に振り回される(是非本編でご覧いただきたい)。
叔父も叔父で一向に利彦が跡を継がないし。
{叔父は、彼なりに利彦に将来のある(絵ではなく)不動産業を継がせようとした親心もあったように思える}
リアリティがあるとはまさにこういうことだろう。
だからこそ、終盤で利彦が芸術、絵に没頭する姿が映える。
流されながらも、己の道を手に入れたというカタルシスが生まれたのである。
腐った現実の描写
前項でも触れたが、利彦の周囲の描写、特にネガティヴな部分が優れている。
そして、それを受けとる利彦の心情も。
基本、ソーウツ気味の利彦の心情をなぞるように起伏をもったストーリーであるが、「ウツ」に墜ちている状態で嫌なことが起きて、切り替えられないのは身に覚えがありまくる。
仲村さんとデート中立ち寄った飲食店の店員の態度が悪い、相変わらず通行人の視線が気になる・・・
そんな、ハタチ越えればどうともなくなることに囚われているのもいい。
『惡の華』(漫画)の作者もこの作品を読んでいたそうだが、この「ひりつき」の描写は、青春漫画好きであればハマること間違いなしだ。
そして、徐々に利彦が周囲に振り回されなくなっていく。
寂しく思うと同時に、感じた。
「利彦はなんとか思春期を生き抜いたのだ」と
終章
現実というのは拍子抜けするというか、ドラマチックなものではない。
私が見る限り、進学就職で住む土地が離れても愛を貫こうとした男女はことごとく関係が壊れるものだし、やりたくもない仕事に人生の大部分を費やし束の間の休みに毒づく。
文学やら芸術、70,80年代のテクノに詳しかろうが何になるんだ?
みんな日々のことに精一杯じゃあないか。
そう思うたび、本作の最後のセリフを思い出す。
それでなんとかここにいられる。
しかし、その言葉は怒涛のストーリーのあとじゃなければ染みない。
だから
読んでくれ。
以上