【2019.5.6発行 『て、わた し』6号寄稿】SNS時代にひとりのゲイとして思う「生きづらさ」を重ねて
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まず、私について簡単に紹介する。
私は現在42歳、福島県出身東京都在住のゲイを公言しているひとりだ。思春期頃に「自分がゲイなのではないか?」と感じる。所作が女性のようだということでいじめもそれなりにありつつも生きてきた。長男でありなおかつ田舎特有である結婚や家の繋がりの抑圧から逃げるように16年前に改めて東京に出てきた(上京は2度目)。現在は同性のパートナー宅に間借りし、彼の家族とともに生活している。
ただ、「ゲイである」ということで「生きづらさ」を感じることがある。
16年前は転職を口実に上京し1ヶ月だけ営業職に就いたのだが、なかなかアポイントメントを取れずにいた。そのときに「アポが取れたら(女性が相手の)風俗連れていくぞ!」と上司に言われたが、ただ既にその頃にはゲイを公言していたためか、苦痛で仕方なかったのをふと思い出す。
また「生きづらさ」を感じることがあるといえば、本人が深く考えすぎて他人には些細なことかもしれないが、「コミュニティへのコミットメント」だ。私は飲みに行くことも少なくクラブイベントも殆ど行かない。ジムも休会してから1年ほど復帰していない。ゲイとしては末端だ。例えばジムに行っているゲイは多くいる。時折SNSでジムでの自撮りを見かける。身体を鍛えているところやその過程、そして成果を見せることで良い反応や応援が欲しい人たちが多くいるのだろう。その流れで鍛えられたモデルが穿くアンダーウェアを買ったり、私が殆ど行かない飲みやクラブイベントに行ったりする。何かにコミットメントしていないとコミュニケーションとしては置いてきぼりを食らう。
金子みすゞさんが詩の中で「みんなちがってみんないい」とは言う。だが今は人と違えば爪弾きにされてしまう。私自身、「ある程度」は迎合しているのかもしれないが、それらは「仕方なく」「合わせざるを得ない」のだろう。そう、ひとつでもそれにしがみついていなければ乗り遅れる。しかしそれは私にとって「窮屈」にほかならない。
最近はSNSも情報ツールとして発展しているためか、私がゲイ当事者であるが故に見過ごしてはならないことも多く起きているように思う。コミットメントが多いためか、私個人もSNS上で所謂「LGBT活動家」と揶揄されることがある。
記憶に新しいところでは、「新潮45」2018年8月号で杉田水脈衆議院議員が寄稿した『「LGBT」支援の度が過ぎる』という文章の中で「生産性がない」と記した。10月号では編集部が開き直った特集を組んだ。8月号発売時では自民党本部前で、10月号発売時では新潮社前で杉田氏と『新潮45』への抗議のスタンディングが行われた。それでも彼女を擁護する声は未だにある。非難の対象になっている当事者の一部も彼女に同調し、「生産性はもともとない」こと、「活動家が言うような差別はない」ことを開き直るかのように言い続けている。
現在目立つのはトランスジェンダー女性(MtF : Male to Female)に対しての差別だろうか。MtFと女装を同一化させて、意図的に「(暴行などの)犯罪を起こす」と煽っている。あまりにも目に余るため、「#トランス女性は女性です」とタグを立てて差別反対の意思を表明した。私はこの件も含めトランスジェンダーには詳しくないが、これには「差別だ」とはっきり言える。
「差別がない」と我が物顔で言う人は自らの行動範囲でしかコトやモノを語らない。寧ろ「騒ぐな!」と言う。
「自分は差別をされていないから差別はない」違う。
「いじめこそあったが自ら努力して成果を出したから差別をされなかった」それは自己中心的と言うのだ。
分かるだろうか、このような声に殺されているのだ。その心ない声のために命まで亡くなる世の中なのだ。
このように今はマジョリティだけでなくマイノリティ当事者である人間が当事者の口を塞ぐことが目立つ。ただでさえ「生きづらい」のに「差別はないんだから騒ぐな!」と声を上げる口を塞ぐ。重ねてどのマイノリティにも当てはまると思うが、ひとつでも声を上げれば「特別扱いか」「被害者ポジションか」と叩いて問題の当事者性を矮小化させる。同性婚に関しても求めているものが婚姻の平等でありながら同様のことを言われてしまう。今は事の平等性や生活をより良くするためにひとつの問題に声を上げた者は敵だと言わんばかりに攻撃する風潮だ。悲しいがそれらは今も昔も変わらない。
鳥居さんの短歌に感じたものは「承認欲求」である。SNSがその旗印になり、人から「いいね」をもらえることや称賛ないし共感によるリツイートが多くあることで増していくものだ。例えばそれをゲイに当てはめるとするなら、前述したジムの過程だろうか。良い反応があればモチベーションになるが、中には心ない中傷もある。それに対しては「なにくそ!」と跳ね返し、良くしようとさらに自らを追い込めるかもしれない。だがそのコメントを無視しても心のどこかには残る。あるいはそのような繋がりや好かれたいがための行動、いつのまにかされているマウンティングに疲れが出てくるかもしれない。本当なら好きなことを好きなだけやって自由を謳歌したいはずが、現実として抜け出せなくなり、迎合せざるを得ない生きづらさに繋がっているのではないか。
クリストファー・ソト氏はトランスジェンダーの詩人であるという。私は2014年に今も継続している“OUT IN JAPAN”というプロジェクトに参加し、ゲイとしての自分の想いを連ねた。そのプロジェクトに参加しているトランスジェンダーの中で特にFtM(Female to Male)の参加者が多いことに目を見張った。逆にMtFの参加者がそこまで多くないことも気になった。
現在、学校の制服が選択できるようになり、より配慮される流れがある。それでもトランスジェンダーの人たちは身体の違和と同様に心が殺されているように思う。ソト氏が最後に「私はこの詩を書くことに疲れた、それでも…」と書き連ねたことに対し、かすかな希望を感じている。現在もトランスジェンダーであることでの差別が未だに消えないからこそ。
「承認欲求」に忙殺され、重なるかのように当事者も含めた心ない声に殺される、何個命があっても足りないような世の中を生きている。声を聞きすぎているのかもしれない。聞こえすぎているのかもしれない。だがその「聞きすぎている声」「聞こえすぎている声」の中にはマイノリティとして生きる中で心を殺されそうな人たちの助けを求める声があるように思う。この二人が投げかけた言葉は、それらの声の中にある、助けを求める「叫び」だ。
引用:【2019.5.6発行 『て、わた し』6号寄稿】SNS時代にひとりのゲイとして思う「生きづらさ」を重ねて あおきりょう
最近はSNSを見るのもとても億劫である。
TERFと呼ばれる特にトランスジェンダー女性を差別する人間は顕在化しているし、アンチLGBTQ+は自分の周囲には差別が無いことを全体的なものと拡大解釈して「差別は無い」と言い張る。まとめサイトでもジェンダーレストイレや銭湯を取り上げ恣意的な切り取りをして、一部の人間のことを全体に拡大解釈して「こんな奴らのために新しい法律なんて要らない」と言う。政権与党の一部議員のクソな言葉と解釈や、旧統一教会の影響もモロにあるのだろう。正直、このようなことばかりが自分のタイムラインを埋めると、ときに説明をすることもある自分の感覚が麻痺する。説明を尽くしても相手はどこで拾ってきたのか分からないものを広げて、さも正しいもののように広げる。呆れつつも「それは違う」と言うそんな自分はどこかで疑問に思い声を上げれば活動家と言われることも変わらない。どうしてここまで説明を尽くさなければいけないのだろう。説明する相手がマジョリティかつどんな言説を聞いているのか分からないのに。ましてやそれが反対派の間違ったデカい声かもしれないのに。自らに都合のいいものしか信用しないからね、その中の殆どがデマということが多いにもかかわらず。このエッセイを書いた2019年(いや、以前からあることだけれども)から変わっていないどころか寧ろ悪くなっている。
そんな中、今回配信されているジェーン・スーさんと堀井美香さんのポッドキャスト『OVER THE SUN』のメインテーマが『事実婚』についてだった。それぞれの話がとても重くて、事実婚、選択的夫婦別姓、同性婚と合わせて考えるとともに過ごす側、選択する側、そしてそのことで生じる現実との壁は、どんなに説明しても分からない人には分かってもらえないんだろうなと思う。そしてその出来事毎にいつも説明をしなければいけないことは徒労の極みである。日本がここまで頑ななのは家父長制とか昔にあった産めよ増やせよの悪影響が続いているからだろうなと思うし、悪しき家制度の「子どもの顔が見たい」という圧力もあり(それがあるから思春期に田舎でゲイという自認が分かった自分はとてもいられなくて、このままでは術中にはまってしまうと思い田舎から逃げた。既婚ゲイなんて選択肢は結婚した女性や産まれた子どもを不幸にするだけだ)、それこそ出産に対して政府が対策を講じなかったからではないのか。そして日本という国が時代に合わせてこなかったという怠慢もある。それは選択的夫婦別姓、同性婚、LGBTQ+に対してもだ。
相変わらず変わらない世の中だ。マイノリティには厳しく、差別には寛容である。日本はどこに行くんだろうな。