悲しい気持ち

自分は『特定不能の広汎性発達障害』である。

それが医師の診断で分かったのは38歳のときで、そのときは民間の就労移行支援に通所していた。そのときにやりとりをしていたスタッフの人に「あおきさんは『発達障害』なんじゃないの?」と言われたのが最初だ。

今はこうして生きづらいながらも生きているけれど、今でもコミュニケーションについてはとても難しく感じるし、仕事をしていても悪い部分が出てきてしまうことがある。幸い人に助けられている部分はあるけれど、「健常者」との差はあるのだと痛感させられる。

昨日、川崎に映画を観に行った。東田直樹さんの著書『自閉症の僕が跳びはねる理由』をベースにしたドキュメンタリー『僕が跳びはねる理由』だ。インド・イギリス・アメリカ・シエラレオネの自閉症当事者や家族を通して描かれている。

絵で伝えたり、スクールで文字を追いながら意思を伝えるシーンなど、詳細は是非とも映画館で観てほしいのだが、中でも出てくる5人の当事者がときどき癇癪やパニックで声を上げたり、身震いやフラッシュバックのようなものが出てくる。これは自分にもときおり出てくる。イヤなことがあったりトラウマになっているであろうことが起きたり思い出したりすると発作的になってしまう。そしてこれから観る人にはすべてがもちろんいいのだけど、特にシエラレオネの自閉症当事者とその家族の話を観ていただけたらと思う。自閉症の子どもは悪魔だ、と言われるときの気持ちは想像を絶した。そして当事者としていろいろ思い出してしまったのか、ときおり自分は泣いてしまうことがあった。

自分の『特定不能の広汎性発達障害』の中には大部分を占めているであろう『自閉症スペクトラム』がある。自分は子どもの頃にその兆候が父方の叔父から指摘されていたのだが、不幸にも家族には見過ごされてしまって、大人になってから診断されるという今に至っている。


実は今日、悲しいことがあった。自分のTwitterにも自らの発達障害のことを書いていることもあるのだけど、昨日の映画を観に行ったときのことをfleetに上げていたのだが、それを見たであろう人がこんなことを書いていた。

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デカい解釈ってのも引っかかったんだけど、何よりも自分のツイを見て違うんじゃないのかから「自称で発達障害言う奴結構いるよね」である。悲しかったわ。思わず自分のツイでこう反論した。

わたしのツイやfleetを見たのかなこの人。わたしは医師から診断降りてるよ。障害年金の申立書にも特定不能の広汎性発達障害のうちの自閉症スペクトラムの部分を当てているんだから。勝手なもんだよな、どう言っても「自称」っててめえの想像で言えるんだからな。だから生きづらいというのに。https://twitter.com/bluezlee_/status/1378968928869871617
とっても悲しくなったわ。産まれた頃からそうだったと言っても過言ではないのに。ずっとつらい思いしていたのに、こうやって頭ごなしに否定されるんだからな。おっさんになってから見過ごされてきたものが分かっても、結局はずっと生きづらいまんまなんじゃ。

そして当該の人を一時ブロックしてから再び覗きに行ったら、当該のツイは削除されていたのだが、どうも頭の中に残っている。そしてとても悲しい気持ちになった。

自分が健常者だったらよほどの思想でない限り言われないはずだ。こうして自分の属性を明かしても「自称」とか抜かす奴がいる以上は延々と苦しみは続いていくのだ。ましてや自分は産まれた頃からそうだったのかもしれないと思ったら、ずっと苦しくてしんどかったのに、それさえも否定されるのか。世間一般からしたら自分が「ふつうではない」ことは分かっている。それでも自分の親は世間一般的な何処にでも居そうな者にさせたかったんだろう。学校も普通クラスだったから。けれど浮いてしまったんだ。自分のような自閉症スペクトラムでも言葉が話せるのに意思疎通が難しい人間は。障害としては重たく見えないから。映画の映像に出てくるような重度ではないから仕事をしていても場に馴染んでしまうような人間になってしまうんだ。そしてこれからも生きていかなければいけない。

いつからか自分は無知な部分が多くあることを今になっても思い知らされる。それなのに自分の気持ちを思うように伝えることが難しい。パートナーや職場の人との話でもときおり分からなくなることがある。簡単なことほど難しい。そして特に電話で大事な話をしても自分には分からないことが多くてうわーってなったり、解釈を悪い方向にしてしまったりと言うことが少なくない。

いつかツイで見た画像で、『発達障害の人には「できる」と「できない」の間に「できるけど疲れる」ことがたくさんある』というテロップのあるものがあった(NHKの発達障害のものだった)。自分もその繰り返しなのである。努力努力と言ったって、分かってもらえなければ無駄骨になる。どうしていつまで当事者が頑張らなあかんのだ。頑張らせなければあかんのだ。自分もここで詩なり文章なり書いてはいるが、何かに一芸秀でているわけでもなし取り上げてくれるわけでもなし、正直もうこれ以上頑張りたくはない。優れている人が多いなんて絵空事だ。ありのままでいさせてくれない社会など要らんわ。

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