柴犬アカウントとFans系クリエイターから考えるルッキズム

5月半ば、ここ数日の間のSNSのゲイ界隈で柴犬アカウントが身バレしたという話が降って沸いた。柴犬アカウントは誰かがSNS(主にX)にポストしたものに、やっかみや卑屈をつける行動を取っていた。歌い手ででもあったようだが、身バレしたためかそのアカウントを閉じ、新しいアカウントを作って「普通の柴犬になった」とは言っているものの、以前と似た言葉の回しをしているのであまり変わっているようには思えない。また何かしそうな雰囲気ではある。

自分はこのことがありSNSに取り上げたら、旧アカウントにブロックされてしまったのだが、中には的を射るようなことを言ってくれているという気もある人も居たのか、「おかしいひとを見つけてくれてありがとう」と崇められていた側面もあるので、柴犬アカウント本人もそれを好きだった人もどこか中毒的なものがあったのだろう。

ちなみに自分は旧柴犬アカウントも含めて、どこか似たような行動を取るアカウントを片っ端からブロックしている。だけど一歩間違ったら自分もあのようになっていたかもしれない。身に覚えがあるからだ。現在進行形で自分もどこか卑屈や羨望があるし、過去を遡ればSNSトラブルも少なくなかった。自分よりも良い誰かを見てぐぬぬとなることは変わらない。

だけどあのようなものをいいなぁと思っている以上は一生ループしていくし、生まれ持ったものを見ても、どんなにそこから自分の見た目などを良くしたとしても、自分は誰かのように良くはなれないと分かっている。併せて自分が使っているSNSで自分というものの人となりや考え方が固定化されてしまうと、新しいことをやろうとしても空振ってしまうので、何においても好きなことができている誰かが本当に羨ましくなる。そしてそのために自分が虚しくなったり、卑屈になったりすることもしょっちゅうである。

だから思うのだ、あの柴犬を僕らは嘲笑うことができるのかと。

反芻にはなるが、誰だって一歩間違えればあのようになる可能性は十分に有り得る。卑屈でありネガティブであればそれはひどくなるようにも思う。ましてやそれはときにルッキズムの話になる。それもそうだ、何かをしている誰かを見ているばかりで、自分はどうして向こう側に居ないのだろうと、羨ましさが暴発しそうになる。それはSNSの弊害なのだろうけど、やっているとルッキズムには苛まれてしまう。自分がSNSフォローしている誰かのタイムラインを延々と見ていると、そのような衝動に駆られてしまう。仕方のないことだけれど、そういうものがあるから、誰かを見て引用をしてイヤそうな言葉を並べ立てるのではないか。


書いてからもう5年経つものではあるのだが、過去に自分がゲイであることが所以で詩誌にエッセイを書いた。テーマは「SNS時代にひとりのゲイとして思う「生きづらさ」を重ねて」だ。ジム通いやクラブ通い、アンダーウェアについて取り上げながら、自分の経験や想いを書いたものである。そのときのものを以下にリンクを張っておく。こういうことを書いていたんだなと読んでもらえたら幸いである。

【2019.5.6発行 『て、わた し』6号寄稿】SNS時代にひとりのゲイとして思う「生きづらさ」を重ねて|あおきりょう @bluezlee_ #note https://note.com/bluezlee/n/nd30927fde09f

コロナ禍もあり、5年経てばSNSの風景も当然変わるのだが、今はそこにOnlyFansやMyFansなどのFans系で自身の裸ないし行為を見せる人も居れば、公然とXに堂々と行為を載せて自身のFansに誘導させることもある。動画や画像を買って見るというプロセスもある以上、顔や身体にコンプレックスのある自分には到底できないことである。いくら「指をくわえて見ているだけじゃダメだよ、飛び込んでごらん」と言われても、自分以外にも人が居る限り、載せたところでアンチやクソリプにも耐えないかんのかと思うと小心者である自分にはできないことだ。なのに向こう側のキラキラを見ている。だが今の世の中はひとつでも合致するものがなければ置いてきぼりを食らう。正直、その怖さもある。

そしてこれは個人的に思うことではあるが、そういうものの盛り上がりが大抵「内輪」での堂々巡りのように思えることがある。Fans系のアカウントを持っている人のXをいくつか観察して思ったことなのだが、表立って実際にやっている人があまり多くないのかもしれないし、自分の顔を隠してやっている人のほうが寧ろ多い。

今は行為もコラボレーションと称されるのだが、その相手というのが限られた狭い範囲でしかない。その界隈からしたら本当に「内輪」としか思えないのだ。やる側からしたら自らも売らなければいけないし、飽きられないようにしなければいけないリスクもある。だから「抜ける」要素は必要だし、いいもののためには顔や身体、持ちものが良い相手を選ぶのは至極当然のことである。狭いコミュニティの中だから、ジムも行為もモチベーションアップのためには内輪が良いのはあるのだろう。だけどそれはどこか狭い世界でしか生きられないような気もしている。フォロワーの数で優越感に浸っている人も居るようだが。

確かに見えている世界は当然ながら違うものだ。そしてこの世界は変な人もおかしな人も居る。今はそれらを取り上げて鬼の首を取ったかのように吊し上げるようなことはSNSでもリアルでもたくさん見てきた。そしてときには卑屈さを隠そうともせず、寧ろそれを武器にした。しかしその行為が身バレというかたちで終わりを迎えても、うっすらと危なっかしい雰囲気を纏いながら新しくSNSを始めている。不思議な世界だ。そして自分はこの世界で生きているのだ。自分が被害にも加害にも及ぶことがあることはいい加減覚えないといけない。ただでさえややこしい世界で生きている以上は、この世界に平穏が訪れることはまずない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?