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妻の笑顔は、誰に(#2000字のホラー)

妻のみゆきは、優しい女性だ。

どんな時も、話をしっかりと聞いてくれる。

ボクの言うことには、基本否定をしない。
きっと、心の中では嫌なことも、あるだろうに。
いつも優しい笑顔で、「はい」と、うなずいてくれる。

結婚して3年たつが、たぶんケンカをしたことがない。
ケンカになる要素そのものが、2人には存在しないのだ。

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ボクには、長年の趣味がある。

それは、「マラソン」だ。

会社員であるボクは、毎朝5時に起きて20kmのジョギングをする。
それも、これも、マラソン大会に向けての練習である。

みゆきも、もちろん理解を示してくれている。

毎朝、嫌な顔ひとつせず、
汗をシャワーで流し終えた頃、
食卓に、温かい朝食を並べてくれているのだ。
幸せな空間の中で、食事を終え、仕事に向かう。
まさに、絵に描いたような円満夫婦なのだ。

マラソンが趣味と言っても、プロ級ではない。
素人の中では早く、プロでは箸にも棒にも引っかからない。

学生時代、サッカーをしていたボクには、
それでもアスリート魂が存在する。

今、フルマラソンの目標タイムは、3時間を切ること。
いわゆる、「サブ3」だ。
全ランナーの上位3%くらいしか達成できないタイムだ。

そこに、挑戦している。

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みゆきとは、ある友人の紹介で知り合った。
ボランティア活動を日頃からしている、みゆき。
ボランティアとは縁遠い、我が道を行く、自分。

2人が出会った初日。

その笑顔と、
どんなことでも肯定的にうなずいてくれる姿に、一目ぼれ。

3ヶ月後には結婚した。

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その日は、湘南国際マラソンだった。

平坦なコースのため、ほとんどアップダウンがなく、
記録の出やすい大会である。

ボクは、「サブ3」の達成をかけ、練習してきた。

朝から、みゆきは、
ボクの、記念すべき「サブ3」達成シーンを見届けるために、
ゴール地点の、大磯ロングビーチに来てくれている。

午前9時。地元代議士のスタート合図で、ランナーは一斉に走り出した。
普段は人が入れない、西湘バイパスを、
ボクの赤いシューズが、軽やかに蹴った。

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ペースは順調だった。
西湘バイパスから、国道134号線に入る。
茅ヶ崎沖の、きらめく海を右手に見ながら、湘南大橋を渡る。

スタートから10km。
手元の腕時計のタイムは、目標を上回り通過できた。

「よし、今日は行ける!」

今日、「サブ3」を達成できることを確信した。

ところが、15kmを過ぎたあたりから、雲行きが怪しくなった。
体調が少しずつ、変化し始めたのだ。
少し、意識がもうろうとし始める。

なんだろう?なんか変だぞ。

徐々にペースが落ち始めた。

だが、持ち前のアスリート魂だけは、顕在だった。

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辻堂海浜公園近くのトンネルを、くぐる。
車では、あっという間に通り過ぎる空間も、
マラソンでは、まるで背筋がゾクゾクする洞窟のように感じる。

しばらくすると、右側の海の向こうに江ノ島が見えてきた。
鵠沼海岸では、サーファーの姿もみえる。

マラソンの折り返し地点は、江ノ島入り口にある。
徐々に折り返してきたTOPランナーたちと、すれ違いはじめる。


その時である。

あの人物を見たのは。

中央分離帯を挟んで、向こうから、
絶対にボクの知る人物が、走ってきたのだ。

そして、10秒ほどで、すれ違った。

昔からの知り合いだろうか。
でも、思い出せないのだ。

どうしても、思い出せない。


ふと、そこでボクの意識が、真っ白になった。

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気がつくと、
ボクは、なぜかゴール地点を見ていた。

その人物、
つまり先ほど、鵠沼海岸付近ですれ違った男が、
ゴールに向かって走ってくる。

最後の力を、振り絞っているのがわかった。

そして、フィニッシュ。

タイムは、2時間59分52秒。

「サブ3」だ。


男を、その先で待っている女性が見えた。

みゆき?

それは、まぎれもなく、ボクの妻だった。

みゆきは、男を笑顔で迎える。

その瞬間、みゆきの目の前で、男は突然、崩れるように倒れたのだ。

ゴール付近。
人々があふれている。
そこに、サイレンが鳴る白い車が近づいてくる。

騒然とする中、
車に2人は乗せられて、消えていった。

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確かに、ケンカはしたことがない。
ただ一つだけ、意見が合わなかったことはある。
それは、健康保険証の裏にある、臓器提供に関する意思表示のことだった。

ボクは、臓器提供否定派。
みゆきは、賛成派だった。
結婚前からのボランティア活動は、そちらの関係だった。

そのことで、意見が食い違い、少しだけ話をしない期間があった。
それ以来、意思表示の裏書きは、常に空欄にしていた。

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意識のないその男は、病室で、とうとう動かなくなった。

ペンライトで瞳孔の動きを確かめる、医師。

みゆきが、泣き崩れた。


しばらくすると、別の医師が入ってきた。

静まり返った病室。
お経を読むような、長めの説明が小さく響く。
みゆきが、神妙なおももちで「はい」とうなずく。

そして、目の前の書類に、署名をしはじめた。

ボクはその時、
ペンを握る横顔に、一瞬現れた、
いつもと変わらない「みゆきの笑顔」を、見逃さなかった。


ベッドの横。

床の上に、無造作に転がる、赤いシューズ。


夢の「サブ3」は、どうやら達成できたらしい。


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