統合失調症の私の生い立ち【もしかして機能不全家族だったかも】
皆さんこんにちは。しおねです。
今日は、統合失調症の私が、発症してしまう前どんな人間だったか、どんな生い立ちかを、まぁあまり需要無いかもしれませんが書いてみました。笑
私は現在、精神障害者等級3級で、27歳になる年に統合失調症であると診断を受けてから今まで闘病し続けています。2年ぐらいですね。結構短い方だと思います。もっと長い期間闘病している方もいらっしゃるかと思います。
基本的に統合失調症は寛解はあっても、完治はありません。不治の病です。こう聞くと、すごく大変な生活を送っているように聞こえますが、実際は普通に生活できています。ただ、毎日の服薬が絶対です。それさえ守れば穏やかな日常を過ごすことが出来ます。でも、あくまでこれは一例として捉えていただければと思います。
以上の4本立てとなっております。
家族構成&生い立ち
父、母、妹の四人家族です。親が転勤族だったため県内各地を巡りました。ま、巡ったと言うほどではないかもしれませんが。笑
幼稚園2つ、小学校2つ、中学校2つ、入学した学校を卒業したのは高校と大学だけです。
しかも転勤先は基本田舎ばっかりでした。中学の時なんて山と海に挟まれてるような場所で、最寄りのコンビニまで車使わなきゃいけないぐらいでして。笑
私の父は一般的には、大金持ちとかではありませんでしたが、「ちゃんとしている」「まとも」と言われる職種で、父親の職業名を言うと大体「ちゃんとしてるね」と100%言われてきました。実際それは間違ってなかったし、小さい時も今も父の仕事が自慢でした。
しかし、家庭の中もちゃんとしていたかというと、それは正反対でして。笑
でも、それは父だけのせいではありません。
母親は専業主婦でしたが、元々は勉強が好きで就職後に仕事を辞めて、渡米した経験もあるほどです。30年前と考えると、片田舎の女子が単身で留学するなんて、かなり凄いことだったんじゃないかなと。
父と結婚せず、アメリカに残ればよかったと何度も聞かされて育ちました。こっちは知ったこっちゃねーよって話なんですけど。笑
話戻しますと、ウチの親はほぼデキ婚でお互い引くに引けなくなって結婚したもんだから、元々あんまり仲が良くないのです。
どれぐらい悪いかと言うと、夫婦仲は最悪で、夫婦喧嘩で警察の厄介になったことが2回もあるぐらいです。ほんとうに大変でした。
毎日のように夫婦喧嘩をされ、母親はどちらかというとヒス気味だったんですよね。いや、家事育児のストレス、慣れない土地についていかないといけない大変さもあったと思うんだけど、まぁいつキレだすのか本当によくわかんなくて。笑
私の幼少期
人の顔色を伺う子供になりました。人の顔を見て、相手の感情を察知して言葉・挙動を選択していく。家庭でいつ母親の激怒スイッチを押してしまうかわからん恐怖と、度重なる転校があり転校先で嫌われずうまくやれるかの緊張をやり過ごすのに身についた力です。成人後の営業の仕事には大変生きましたが、それでもストレスだったんでしょうね。
それから、自分を認めて欲しい、とにかく頑張らないと認められない!という気持ちが子供の時からありました。前述したヒス気味の母親はあまり抱きしめてはくれませんでしたが、教育にお金をかけてくれる人でした。そこはありがたかったですね。
習い事も沢山しました。小学生の頃は何も無い遊べる日が水曜日しか無かったこともあります。
それでも、母に褒められた記憶なんかほぼありません。中学に入り300人前後の中で、テストで学年4位になっても褒めて貰えたことはありません。しおね凄いじゃない!って抱きしめて欲しかったんでしょうね。もちろん、勉強とは自分のためにするものですよ。それでも、私の願望が叶うことはありませんでした。あの人はいつも妹を見ていました。(妹は悪くないし、妹の事は好きだし今も仲良いです)
戦争だった高校時代
私は市内で1番と言われる高校に入学することが出来、演劇部に入部し、楽しい高校ライフを謳歌していました。
部活が夜の6時まであるのがすごく嬉しかったです。何故なら家に早く帰らなくて済むからです。
家に帰ると母親との喧嘩が待っていたからです。今だから思うのは、母親の更年期と私の反抗期?が被ってたのかなあと。笑
喧嘩がヒートアップして抑えがきかなくなって暴れる私を父親が押さえつける。地獄絵図です。玄関の扉のガラスを蹴り飛ばして割ったこともありました。書いてみると私もひでえな。笑
母親は母親で私の参考書を破いたり、手を出すことは多くはなかったけど、よく怒鳴って自尊心削ってきましたね。
あんたなんか産まなきゃ良かったとか普通にめっちゃほぼ毎日言われてましたよ。笑
お母さんとショッピングに行ったの〜って言ってる同級生の話が、異世界の話に聞こえましたもん。でも、本当は羨ましかったのかも。怒鳴りあいじゃなく、認めて欲しかった。
逃げた大学時代
私は将来の進路について真剣に悩んで決めることが出来ず、何となく受けた大学は落ちまくり大学受験に失敗しました。当時はセンター試験があったので、センター利用で引っ掛けた滑り止めの大学に入学しました。
父は早く私を家から出して上げたいと思っていたらしく、一人暮らしをさせてくれました。ありがたかったです。基本的に私はお金に恵まれてきました。というか、父にはもうそれ以外の術が無かったのかもしれません。そこから、母とはしばらく会わずに過ごすことになります。
大学で私は社交ダンスの部活に入り、ダンスの魅力に取りつかれました。笑
もちろん卒論も書いて、単位を落とすことなくちゃんと卒業しました。
やっと人生の楽しさを感じ始め、かつ自分の育った家庭がどこか他の家と違うんだと自覚し始めた頃でもありました。
しっかりと7月の頭に大手生保の内定を貰い、これから自分はやっと、「邪魔されない幸せな人生」を歩めるものだと信じていました。
だいぶ長く書いちゃったので、今日はここまでとします。笑
次は大手生保に入社したところから書こうかな。
読んでくれた方、ありがとうございました。
あなたに今日もいい事がありますように。