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「えのぐ」のなんとなく、青に感じる命の歌

えのぐの最新アルバム「なら、真っ白から始めよう」に収録された楽曲「なんとなく、青」。
この楽曲を最初に聴いた時は、将来に対して漠然とした不安を抱く10代の若者の心情を歌い、そっと背中を押してくれるような楽曲だと感じた。

しかし、聴けば聴くほどもう一つの解釈が私の頭をよぎって離れない。
それが消えそうな命に手を伸ばしてくれる、というものだ。

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勝ち負けの社会とか
夢や理想像だとか窓へと逃がして
イチ抜けたところで君は
どんな顔で笑うの?
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社会に出たあと、勝ち負けというものにはこだわらなくなり、夢や理想もあきらめて(イチ抜けて)惰性で仕事をして生きるためのお金だけ稼ぐ。
そんな生き方をしていて笑えるのか?と問うているように感じる。

そしてもう一つ。勝ち負けが常につきまとう社会に嫌気がさし、夢や理想も捨ててこの世からイチ抜ける。
その瞬間に君(20代後半~30代後半くらい?)は笑えるのかと問うているようでもある。

今回私が感じたのは後者の方だ。
イチ抜けたところでの「ところで」の少し投げやりなフレーズ、そしてこのパートを歌う鈴木あんずさんの少し鬱蒼とした歌い方がそう感じさせた。

彼女はソロ曲で死生観をテーマにした歌も歌っているので、そのイメージもありこの解釈と結びついたのかもしれない。

どっちの解釈も当たりかもしれないし、はずれかもしれない。
ただ私がこう感じたというだけの話で、それがこのあとも続く。

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空が青かったり
今が雲のように過ぎ去っていくように
昨日に帰れないように

笑えてりゃいいのになぁ
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これは世の中には変わらないものがあるのなら、毎日を変わりなく楽しく過ごしたいというささやかな願望が表現されているともとれるし、何をしても変わらない日々を受け入れられずに、笑うことさえできない人の絶望を表現しているようにもとれる。

白藤環さんの「笑えてりゃいいのになぁ」が天を仰いで歌っているようであり、どこかあきらめているように聴こえたからこう思ったのかもしれない。

普段とても元気な彼女だからこそ、この表現のギャップがこの歌をさらに高めてくれているように感じる。

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そうだ 甘かったはずの
カフェオレが少しだけ苦かった今日

そんなこと何度この先
僕ら分かち合えるだろうか
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これは離れ離れになることへの不安を表しているようにもとれるし、この世にまだ未練があって死にきれない心情がまだ残っているようにもとれる。

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描きかけの無題の絵
自由 退屈とかがキャンパスを染めて
僕+余白イコールはきっと

僕らのちょっとした存在証明でさ
青い、愛しき日々よ
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余白とはこれからの自分。これから染まっていくものだと考える。その余白の大きさは人それぞれだが、10代の人なら余白の大きさ(将来)に不安を抱えつつも、これまでの青い日々を思い出して自分を奮い立たせることができるかもしれない。

逆に、死のうと考えている人(年代問わず)はその余白がない、または見る余裕がなくかつての青い日々にすがりついて、「マシな日々もあった」と少しでも自分の存在や生きた意味を見出そうとしているように感じる。

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誰にでもなれるよ
でも誰にもなれなくて
のらりくらり
それでいい気がした
じゃあまた明日って言葉も約束も
いらないのにまた会える
魔法みたいだ君がいれば
なんとなく僕でいられるから
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変わらなくてもいい自分を何も言わずに受け入れてくれる存在が「君」なのだろう。
それは友達かもしれないし、家族かも、恋人かもしれない。
もしかしたら自分を認めてあげている自分のことかもしれない。

これから社会に出る人にも、生きるのに疲れた人にも、なんとなく自分でいられる場所、帰れる場所があることに気づいてほしいという想いが感じられる。

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そうか余ってたはずの
青色も使うほど無くなっていく

心(ここ)もそうと大人は言うの
余白も埋まっていくらしい

踊るチョークさよならの分
どうやら、あぁすり減っている

「僕らにはまだ時間がある」
強がってみたけど
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未来ある若者にとっては警告のように聴こえ、命をあきらめようとしている人にとっては「多くの人も君と同じで余白をなくしつつあるのだ。

だから、周りには君の気持ちを理解してくれる人がいるはずだ」と伝えようとしているように聴こえる。

それが慰めになるかはわからないが、伝えずにはいられないというように感じる。

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下駄箱の向こうには
題名あるトンネルそれぞれにあって
靴履いたところで君は
どんな場所へ向かうの?

そこが遠かったり
痛い靴擦れ立ち止まっちゃったって
明日を迷っちゃったって

生きていて
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ここは未来あふれる者も、命をあきらめようとしている人も関係なく、ただただ生きていてほしいという願いが込められているように感じる。

ここの日向奈央さんの「どんな場所に向かうの?」という問いかけは、本当に真っ暗なトンネルが目の前にあるように感じさせている。

真っ暗だけどそれでも生きてほしい。
その「それでも」を強調するうえで欠かせない表現力だ。

そしてそれに応えるような、夏目ハルさんの切実な「生きていて」。
彼女のこの一言がなければ、私はこの解釈を思い起こせなかっただろう。

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誰にでも描けるよ
でも描けない人もいて
ルララ変わらなくていい気がした
じゃあまた明日って言葉も約束も
大人は難しいらしい
魔法使いや青い猫を
欲しがるらしい
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簡単な約束さえ交わせない情けなさ。
魔法使いや22世紀の猫型ロボットを欲しがる子どもっぽさ。

大人といえど完璧ではないということを伝え、「君も完全無欠でなくていいんだよ」と笑いながら教えてくれる。
これで将来への不安がいくばくか軽くなるし、「じゃあもうちょっと生きてもいいのかな」と思えるようになる。

社会に出たことがない人にも、社会でボロボロになった人にも寄り添える歌だ。

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誰にでもなれるよ
でも誰にもなれなくて
それでいいよ
そのままでいいから
歯磨いちゃって明日へ逃げよう

嫌な今日なら眠っておしまい

魔法じゃないよ明日が来れば
なんとなく僕へ戻れるから

なんとなく君に会えそうだな

今日も
なんとなく僕でいられるから
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ここも同じだ。
人は完全ではないのだから、誰になってもいいし、誰にもならなくていい。
嫌なことがあれば逃げちゃっていい。

自分含め、自分を認めてくれる誰かがいるのならまた会える。明日も生きていける。
だから、なんとなくでもいいから、生きていて。
そう歌っているように感じた。

この解釈は多分、私がネガティブだからこう思っただけのものである。
違う時に聞けば、また違った解釈が生まれるかもしれない。

それだけでなく歌う側によっても変化する。実際、日向奈央さんがソロで歌った時はこういった解釈を思い起こすことはなかった。

要はこの文章も一時の感情でしかないのかもしれないが、それを書き残しておこうと思えるほどこの曲に魅力を感じたし、えのぐというグループが好きなのだということが改めてわかった。

それがわかっただけでもよしとしよう。
そして、えのぐがこれからどんな色で私の余白を埋めてくれるのか楽しみに生きていこう。

なんだ、随分とポジティブじゃないか。さっきと言っていることが違うぞ。
そうはいってもこっちも私なのだからしょうがない。
なんとなくネガティブだし、なんとなくポジティブだ。これでいいのだ。
それじゃあまた明日。


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