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思いついたことを言葉にしてみる #13 京都のこと

先日、京都へ行ってきた。洛中は外国人で溢れ、どこかしこも日本語の音量は低い。人いきれがくるしいので軽装でも登れる大文字山を歩いてきた。

京都生活をしたことがないけれど、五十路を越えてから毎年必ず訪れる場所である。昔のCMのノリで、思いついたら「そうだ、京都へ行こう」とつながる。その理由を深く考えたことがなかったことに気づく。静寂が広がる大文字山への登山道を歩きながら考えてみた。

あらまし。五十路最初の京都は、神戸での所用の帰りに寄った。理由は思い出せないけれど、恥ずかしくなるほどベタな金閣寺へ。中学校の修学旅行以来の訪問に過去の記憶はまったく無いことも手伝ってか、新鮮な感情でその美しさにただうっとりした。ここのすぐ近くで普通の人々の生活が営まれているのに、別世界的な浄土の様相。そのとき、京都への特別な意識が芽生えたと思う。

意識しはじめると意識的に足を運ぶことになる。名所史跡は事欠くことなく思いついたとき足を運び、幕末の英雄と同じ景色をみていることの高揚感を味わったり。私の生まれるずっとずっと昔から圧倒的に長い時間をかけて作られてきた風景は心に訴えかけてくるものがある。極めてベタな産寧坂の頂から見下ろす景色が大好きだ。

街並と傾斜と石畳が絶妙の産寧坂

ここまでは、うわべの京都。それでやり過ごしても、まったく問題はない。そこまでの京都でじゅうぶん満足している。それより、なんで「うわべの京都」って思い付いたのか。位置的には清水寺の裏の奥の方、大好きな産寧坂から東の延長線上にある柱状節理の石片を踏み分けながら集中して考えてみる。

柱状節理の石畳はこんな感じ

「うわべの京都」があるなら、中味というか、核心の京都とは。それは五十路過ぎてから親しくさせていただいている友人が、学生時代を京都で過ごし、その方のツテで訪れるたびに京都で生活している知り合いが増え、京都生活者の空気感に少し触れてから、私の見えている京都に変化があったように思う。そして、その素敵な方々のほとんどが京都生まれでないことにあとから気づいた。

大文字山の火床からの絶景

生粋の京都的なことは洛中のひとに任せて、皆が触れる機会は大きなお祭りのとき。気候は夏冬と厳しいときもあるけれど、とにかく、暮らしやすさを満喫しているように感じた。どなたも特色のあるお店を経営しては、インバウンドにもそつなく対応している。そのことは「少し間口が広がっただけ」と平熱を保っている。冷静な大人の振る舞い。

また、京都は普段食べ慣れている料理が抜群にうまい。ラーメンや酢豚などの中華、ハンバーグ、フライなどの洋食、カレーや喫茶店の食事など、今まで外れたことがない。普通のことをちゃんとやるのが京都かな、と勝手に思っている。

大文字山の急な下りを歩いていくと、最後は銀閣寺の横に出る。静寂から喧騒の切り替えが早過ぎ。ここから少し北へ歩くと、知人のラーメン屋がある。ちょうど昼前の空腹どき。北白川はラーメン激戦区である。

ラーメンながたのセットメニュー

ラーメンは白湯と醤油スープのハーフ&ハーフ。コッテリさは抑え目ながら食べ応えはガッツリある。いい感じの満腹感。さて洛中へ戻ろうにも、市バスがほぼ一直線に南へ降っていく。ほぼ満員のバスの中の半数以上は外国人である。

幸いにも「いけず」な都市伝説に遭遇していない。それは本当にあるのだろうけれど、特に近づく必要もない。そこまで前のめりならないのも京都の魅力かな。

時間をかけるたびに好きになっていく京都は、今では次の引越し先有力候補の一つになっている。もう戻れない。京都生活者になりたい自分が見えてきた。なるほど、これが私の京都なのかな。また変化するかもしれないけれど。

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