憧れのオーストラリア〜屋根裏部屋と水あたり
海外は危ない所だよとさんざん皆から脅されていた私は、同僚がくれた手作りの袋にパスポートを入れ、首からさげてそれをシャツの中へしまい、オーストラリアへ旅立った。チェックインや入国カードの記入でパスポートが必要な時に取り出すのがとても面倒だった。後にそんなことまでしなくていいと気づいたが、その時はビクビクしていた。
ビザはワーキングホリデイを取得した。3ヶ月は英語学校だったけれど、残りの3ヶ月は学校を続けるかは現地で決めようと思っていた。英語学校と下宿は、日本から手続きをして決めていた。下宿に着いてから少し説明を受け、部屋へ通された。私に割り当てられた部屋は、ベッドと机があり、ほとんど歩くスペースのない屋根裏部屋だった。気をつけてベッドから起き上がらないと、斜めになっている天井で頭を打った。私の部屋の前は皆が使用するバスルームだったので、いつもざわざわしていた。それでも生まれて初めて自分の城が持てて嬉しかった。
下宿代には朝食と夕食が含まれていた。私は好き嫌いなくなんでも食べる方だが、どうやったらあんなにまずく料理ができるのか、理解できないくらいに美味しくなかった。下宿には、日本人、台湾人、韓国人、インドネシア人、年配のオーストラリア人等、様々な人種がいた。なるべく色々な人と話をするようにしていた。ある日、他の下宿部屋を覗いてみると、私の部屋より断然良かった。同じ料金なのに…下宿の責任者の所へ行き、「部屋をかえてくれ!」と言うと「丁度君に良い部屋があって、言おうと思っていたんだ」と調子の良い事を言われた。早速別の部屋へ通された。そこはまるで天国だった。今迄の3倍くらいの広さの上に屋根裏ではない。しかも角部屋で、テレビと流しまでついていた。その時私は「言った者勝ち」という言葉を実感した。
オーストラリアの水道水は悪くないと言われていた。しかし、念の為水道水は飲んでいなかった。歯磨きや野菜を洗った後等で、体内に入っていたのだろう。嘔吐下痢が3日くらい続き、ヘロヘロになった。福岡で知り合ったジョンソン夫人が病院へ連れていってくれ、お医者さんに薬を貰った。飲んだらケロっと治った。保険に入っていなかったので覚悟していたら、ジョンソン夫人が支払いをしてくれた。ありがたかった。
ドタバタしながらも、毎日電車に乗りハーバーブリッジを渡り「いい風景だな~」と感動して学校へ行き、12人位のクラスで授業を受け(授業は悪くはなかったが、先生が風邪で休みの日はビデオだけ見せられ、なんたる手抜きと憤慨していた。)授業が終わると街をブラブラしたり、映画を見たり、船に乗ってすぐのマンリービーチへ遊びに行ったりして、シドニーを満喫した。週末にはジョンソン夫妻がキャンピングカーでキャンプに連れ出してくれた。自然と街が共存していて、オーストラリアの人達は気さくで、大変気に入り「ずっとここに住みたい!」と思った。
英語の方は、発音が悪く簡単な言葉も通じなくて意気消沈することもあったけれど、めげずに機会ある毎に喋りまくった。
実は本来、私はお喋りではなく、常に人の話を聞いている側だったのだが、少しでも上達する為無理してお喋りになる努力をした。
こうして私のシドニーでの最初の2ヶ月は、ドタバタワクワクしながら過ぎていった。