とりあえず始めた英語の勉強
それが19才だったか20才だったかよく覚えていない。とりあえず何か身に付けようと思いたった私は、職場近くの英会話学校を二校ほど訪問し、受講料の安い方に決めた。初級クラスで教室には20人位の生徒がいた。高校のように教壇があり、生徒の机は教壇に向かい並んでいた。生徒が多いので先生と直接話せるチャンスは殆どなかった。週2回仕事の後に休まず通った。それと同時にアルクのヒアリングマラソンを始めた。通勤の往復2時間、ひたすら聞きまくった。休みの日は、ヒアリングマラソンの本を読んで、通勤時に聞いている事は本当は何を言っているのかをチェックしていった。暫くしてから実用英語検定2級の勉強も始めた。
暫くは仕事、英語の生活を続けた。そんなある日、ツアーコンダクターって楽しそう、と思い立ち、専門学校から資料を取り寄せた。バイトしながら東京の専門学校へ通おうと思った。またまた皆に猛反対された。泣く泣く専門学校へ行くことは諦めた。そしてまたある日「青年海外協力隊」に応募した。剣道をずっとやっていたので(岩田屋でも剣道部があり所属していた。)スポーツで受験した。一次試験はパスし、東京で面接があった。二次の技能面接と一般面接で落とされた。
とにかく仕事と英語だけは続けた。天神で外国人が道に迷っていたら必ず声をかけた。そこからお友達になった人までいる。ある日、本屋で良い英語の本がないか探していたら、オーストラリア人の男性が声をかけてくれた。
「英語勉強してるの?」と聞いてきたので「そうです」と軽くドキドキしながら英語で言葉を交わした。レジに行くとその男性と奥さんがいて、なにやら店員と意思疎通ができていなかったので、はりきって駆け寄り、つたない英語で通訳をした。それからその夫妻と話をして、福岡はこんな所ですよ、ここがいいですよ、とか教えてあげた。次の日、岩田屋のハンカチ売り場に夫妻は訪ねてきてくれた。仕事が終わってから一緒に食事をした。滞在中何度か会い「必ずオーストラリアにおいで」「必ず行く!」と約束を交わした。
その日から、私の夢はオーストラリアに行く事に変わった。
行くのなら1年位住んでみたい。早速両親に相談したが、勿論猛反対された。
そこで私は「よし! 猛反対できないように、自分で貯金して、英語が喋れるようになってから行ってやる!!」と決意した。
それからは仕事、英会話学校、ヒアリングマラソン、自宅学習の日々を来る日も来る日も続けた。車のローンは月々10万円位の給料から2~3万ひかれていたのできつかったが、服も買わず、何も買わず、私はひたすらオーストラリア行き資金を貯金した。気の毒に思った岩田屋の同僚は、よくおさがりを私にくれた。実家から通っていたのでローンを払った残りの給料は殆ど貯金にあてた。
英検2級に合格し、貯金もオーストラリアで1年は暮らせるくらい貯まった頃、私は23才になっていた。なんのかんのいいながら18才で就職し5年間も岩田屋で働いていた。石の上にも3年はとっくに過ぎていた。
畳の上に正座し両親に貯金通帳と2級の合格証を差し出し「これだけ貯金しました。英語も結構勉強しました。行かせてください」とお願いした。今度ばかりは両親は反対できなかった。「わかった。行っておいで」と言って貰えた時は本当に嬉しかった。18才から23才まで、私の思いつきにことごとく反対し続けた両親。それは愛情あってのまさに親心であったことは、後にわかることとなる。その時の私には、まだよくわかっていなかった。
心躍らせ、岩田屋の上司にこれこれこういう理由で辞めます、と告げるとその上司は人事にかけあってくれ、半年間の休職扱いにしてくれた。岩田屋始まって以来の新制度を、こんな私の為にわざわざ新設してくれた。本当にありがたかった。両親もこれで安心してくれた。
そうして私は岩田屋を半年間休職し、オーストラリアはシドニーにめでたく旅立つことになった。