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女の言語と存在論|ヴァージニア・ウルフ
それを読むことによって世界像が一変する、もしくは、なにかしらの「質的」な変化がもたらされる(それまでの世界像の延長線上にある「量的」なものではない)一冊は、社会的に広く認知されてもいれば、個人的にそれぞれ深く刻まれることにもなる。
この広さと深さの関係は、前者を情報とするなら、後者は体験と呼べるものであり、いわゆる「読書体験」とは、この深さのことを指しているように思う。
そのため、時間的にも空間的にも均一性(変わらないこと)を目指す「情報」に対して、時間的にも空間的にも不均一(異なること)なのが「体験」の体験たる所以(ゆえん)であり、しかしいっぽうで、同じ体験を集積する統計的な広さにおいても、同じ体験を掘り下げる直感的な深みにおいても、ある共通理解が得られることに、普遍性の普遍性たる所以(ゆえん)がある。
つまり、普遍的であるということは、通時性(時代を超えること)と共時性(場所を超えること)の他にも、広さと深さの2つの軸が存在しているのではないか。そして、ヴァージニア・ウルフ(1882 - 1941年)が小説において成し遂げた仕事は、こうした意味での普遍性に、さらにもう1つの領域があることを示したように思う。
それは、女にとっての言語は、男にとっての言語とは「質的」に異なるということであり、したがって、言語として示される存在論についても、やはり異なるということになる。
ごく一般的に言えば、この違いは「男と女は別の生き物」として言い表されるものであり、しかし、別の生き物とは何を意味するのかについては、どこか経験的な直感に委ねられている。このことを言語レベルで(小説という様式のなかで)、彼女は示してみせたのではないか。
彼女は『ダロウェイ夫人』の主人公クラリッサ・ダロウェイに、こんなふうにモノローグ(独白)させている。
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でもピーターがわたしに「なるほど、だけどあなたのパーティーあなたのパーティの意味はなんなんです?」とたずねるとしよう。わたしにはこう言えるだけだ(誰にも理解してもらえないと思うけれど)。それは捧げ物です、と。
あなたの愛はなんなの? そう言ってあげたっていいはずだ。あの人の答えはわかっている。世界じゅうでいちばん大切なものです。女性には決してわからないでしょうがね。たしかにそのとおり。だけど逆に、わたしが言おうとしていることをわかってくれる男性はいるかしら? わたしが人生について言おうとしていることを。ピーターやリチャードだって、理由もなくわざわざパーティをひらくはずはない。
でも、さらに自分の心の奥深くにもぐってみるならば、わたしにとってどういう意味をもっているのだろう、わたしが人生と呼ぶこのものは?
誰それがサウス・ケンジントンにいる。べつの誰かがベイズウォーターにいる。またべつの誰かがたとえばメイフェアにいる。わたしはたえずその人たちの存在を意識しつづけている。そしてなんてむだなことか、なんて残念なことかと感じる。その人たちを一緒に集められたらどんなに素晴らしいだろう。だからわたしは実行に移すのだ。それは捧げ物なのだ。人びとをむすびあわせ、そこからなにかをつくり出すってことは。でも、誰にたいする捧げ物なのだろう?
おそらく捧げ物のための捧げ物だ。
(集英社単行本, 丹治愛/訳, p167-168より抜粋)
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このモノローグ(独白)は、登場人物としてのクラリッサ・ダロウェイのものであると同時に、ヴァージニア・ウルフ自身に宿っていた感受性の根源でもあったように感じる。また、一種の言語論であり、存在論にもなっているように思う。
言語論のように感じられる理由は、男にとっての「愛」という言葉(概念)の通りの良さに対して、クラリッサという実存(自分の心の奥深く)を通すことによって立ち上げられた、女にとっての「捧げ物=人生」という言葉の通りの悪さ、その対称性(あるいは非対称)によるものであり、またこのことは、そうした言語の不全性から立ち上げられる存在論といった形でも表れている。
そして「誰それがサウス・ケンジントンにいる」からはじまる一節は、いわゆる「意識の流れ」と称される、ヴァージニア・ウルフの作風(様式)それ自身についての言及にもなっている。
この『ダロウェイ夫人』には、作者自身がクラリッサ・ダロウェイの「分身」と呼んだ(つまりはヴァージニア・ウルフ自身の分身でもあっただろう)セプティマス・ウォレン・スミスの自殺や、その真逆の存在として造形されたミス・キルマンとの対峙(もしくは対決、あるいは影として)など、骨太な読みどころが他にもある。
しかし、そうした構成を「言語」として根本的に支えているのが、上記のモノローグ(独白)であり、ここを抑えておかなければ、もしかすると「質的」な読みにはならないのではないか。
いっぽう、クラリッサによって「だけど逆に、わたしが言おうとしていることをわかってくれる男性はいるかしら?」と問いかけられた内容については、もしかすると女性たち以上に、僕には何を言っているのかがよく分かるところがあり、むしろこうした感覚(存在論)は、実際に触れ合った女性たちにこそ伝わらない経験が、山のようにある。
それはいったい、なぜなのか。
このことについて、本作(1925年)に続いて刊行された『灯台へ』(1927年)を読みながら、内省してみようと思う。おそらく、女だから女を理解し、男には女を理解することは難しいといった、どこか能天気にさえ感じられる事情ではない。
最も深い意味での疎外や、越境などが関わっているように、今のところ直感している。