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深く、深く、深く潜るということ|ジョルジュ・バタイユ
優れた思想や哲学に触れるときの醍醐味には、コペルニクス的転回と呼ばれる現象があり、それぞれの時代を代表する思想家・哲学者たちは、例外なくこうした転回(天動説と地動説のように、各時代のパラダイム(認識の枠組み)とは180度異なる知見)を鮮やかに示しているところがある。
また、「コペルニクス的転回」という語を自ら使った哲学者にイマヌエル・カント(1724 - 1804年)がおり、主著となる『純粋理性批判』において、それまで万能(無限)と思われていた理性には、限界(有限)があることを示してみせたのが最大の功績であり、その際に採られたアンチノミー(二律背反)という手法は、非常に鮮やかなものだった。
この意味において、ジョルジュ・バタイユ(1897 - 1962年)もまたコペルニクス的転回を示しており、しかし、その経路は鮮やかというより、どこまでも深く、さらに深くといったようなものだったことが、酒井健・著『バタイユ入門』(ちくま新書)には記されている。
入門書と謳われたものの多くが、その任を果たせていないなか、本書はバタイユの人物像から著作全体に通底する核心までを見事に概観しているように感じられ、とてつもない力量を感じる。
読んだのは数年前であるため、具体的なことのほとんどは忘れてしまったなか、サッと目を通してみると、むしろ忘れることによって身体化され(血肉となり)、今の僕が反射的に考えることの一部には、本書で示されたバタイユ像が濃密に溶け込んでいるところがあった。
たとえば、ヘーゲル(1770 - 1831年)との対決、ニーチェ(1844 - 1900年)への参照などを経た「非-知」という主要概念1つをとってみても、言葉は「紡がれる」ものではなく、「壊れて」みせなければならず、そのときはじめて真の姿を現すのではないかという、僕なりの言語像と深く結びついている。
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バタイユ入門|酒井健|ちくま新書
目玉の話|ジョルジュ・バタイユ|中条省平/訳|光文社古典新訳文庫
ルドン展 絶対の探求|岐阜県美術館|2002年(図録)
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広く知られている小説『目玉の話(眼球譚)』については、始まりから終わりまで、アナルへの異物挿入、露出、スカトロ(放尿)、乱交、顔射、そして屍姦に至るまで、様々に倒錯した性描写が、延々と繰り広げられているにも関わらず、読後に訪れたのは、台風の目のなかにいるような静けさだった。
それは、目玉/玉子/金玉というアナロジー(類推)をつなぐものが、台風の目のように見つめる、バタイユの知性(理性)のまなざしによるからだろうと思う。また、だからこそ、目玉(意識)をくり抜き、金玉(無意識)を食ってみせなければならなかった。
バタイユがシモーヌとして造形した女は、決して女ではなく、男性性や理性性の極点を裏返したような存在であり、なぜ彼が「非―知の哲学」へと向かうことになったのか、僕には生理的に分かるようなところがあった。
小説の終わりに、作者本人による解題のようなものがついており、この作品の神秘性の種明かしをしてしまっているあたりが、いっさいのものを脱構築しようとしたバタイユらしく思う。また、彼がその文体において志向したのが、ヘミングウェイだったのも膝を打つような思いがした。
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こうしたバタイユ的な世界に、オディロン・ルドン(1840 - 1916年)はよく馴染む。ずいぶん昔に観たルドン展の図録より、『「エドガー・ポーに」 Ⅰ. 眼は奇妙な気球のように無限に向かう』(1882年)。
映画では『A GHOST STORY』(ケイシー・アフレック, ルーニー・マーラ主演)を少し思わせる。まなざしの自律性は、それ自身でどこまでも行こうとする。