ドキュメンタリー どうする松本潤?徳川家康の大冒険
〓NHKオンデマンドで観賞。
ジャンルはドキュメンタリー、教養番組。
全2回の放送で1回が1時間30分。
#1が2022年の3月26日に、#2が9月10日に放送。
ナレーションはキムラ緑子さん。
大河ドラマ“どうする家康”を殿(松本潤さん)と一緒に“楽しく予習復習する”がコンセプト!
ワカマツカオリさんのイラスト好きだなー素敵。
なかなか興味深くて面白かったので個人的な意見や感想を交えながらまとめてみます!
※以下ネタバレ。
※武将の画像は“信長の野望 創造 戦国立志伝”、1542年8月 美濃の蝮 松平広忠プレイのものです(武力での天下統一クリア!)
〓第1回〜第12回までの記事です!
〓#1回
“鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス”
天下人・徳川家康の波乱万丈な生涯。
そのなかでも特に大きな3つの大事件を殿(松本潤さん)が追体験!
“その時、自分だったらどうする?”
松本潤さんが体当たりで挑む!
〓大事件1.桶狭間の合戦
まずは家康19歳、“桶狭間の合戦(1560年)”から追体験!
殿は名古屋市内にある“大高城跡”へ。
案内してくれるのは東京大学教授で歴史研究家の“本郷和人”さん。
この気さくで面白いおじさんが今回殿と一緒に旅をしてくれるパートナー(笑)
大高城跡は住宅地を抜けた先、急な坂の上にある。
桶狭間の戦いの前哨戦、“大高城の戦い”
当時の家康の名前は“松平元康”、元康は“今川義元”の命を受け、“鵜殿長照”が守る“大高城”に兵糧を運ぶことに。
大高城のまわりには信長が築いたいくつもの砦がある。
いわゆる“兵糧攻め”、大高城のまわりを砦で囲み、じわじわと敵を弱らせる作戦。
大高城に兵糧を運ぶためにはまず、砦を落とさなければならない。
家康のデビュー戦、これが“初陣”にしてとんでもなく華々しい!
元康は“丸根砦”を攻略、砦を守っていた信長の重臣で武功名高い“佐久間大学”こと“佐久間盛重(月岡芳年が描いた恐ろしい姿が有名!)”を戦死させる。
丸根砦と対をなした“鷲津砦”は今川家重臣の“朝比奈泰朝”が落とした(砦を守っていた信長の父“信秀”の従兄弟“飯尾定宗”らは全員戦死した)
無事、大高城に入った元康は義元の到着を待つ。
桶狭間は大高城の裏側、4キロの場所。
大高城から桶狭間の間には小高い丘があり、城から桶狭間は見えない…。
〓決断1.どうする松本潤!?
元康は今川義元の死を知る!
だが、実際に自分の目で確認した訳ではない…どうする!?
1.すぐに出撃して織田勢を攻撃、主の仇をとる!
2.大高城で籠城する。
3.なにもしない、とりあえず様子を見る。
松本家康が下した決断は…(あえて書きません、本編で!)
元康(家康)が下した決断は…“3.なにもしなかった”
状況がよく分からない状態で動くのは危険と判断、とりあえず情報を必死に集めた。
情報を集めて考えに考え抜いた結果…元康は故郷の岡崎に帰ることを決める。
元康は8歳で人質として駿府に預けられたので、岡崎に帰るのは約10年ぶり。
深夜23時に大高城を出発、大高城から岡崎までの24キロを必死に走った。
元康を狙う敵は織田以外にもいる。
地侍や農民たちによる“落ち武者狩り”だ。
数百人いた元康の家臣たちも岡崎への逃亡時にはみんな逃げてしまい、18人ほどに(8人という説も!)
殿は当時の馬が長距離を移動するスピードと同じ速さの“自転車”で安城から岡崎市内、“岡崎城”を目指して走ることに!
直線距離で5.5キロの自転車の旅。
見晴らしがいい場所、ここは敵から自分の姿がまる見えになる場所、危険だ。
岡崎城へ向かう直線ルートも危険、敵が待ち伏せしているかも知れない。
殿は岡崎城へ一番近い“渡し場”を避けて矢作川上流へと迂回、そこから対岸へと渡る。
静岡育ちの元康には岡崎の土地勘がない。
織田軍や落ち武者狩りが元康たちを探している、守ってくれる供の数はわずか。
危険極まりない道のりを元康たちは必死に駆け抜けた。
途中の“湧き水(御所清水)”で馬を少し休ませたという元康、相当な遠回りをしながら“大樹寺(だいじゅうじ)”まで走り続けた。
“下剋上が常の戦国乱世”
元康は岡崎城にすぐには入らなかった。
元康にとって久しぶりすぎる岡崎。
“岡崎の家臣たちは自分を受け入れてくれるのか?
裏切って自分を殺すんじゃないか…”
松平家の菩提寺である大樹寺の方が元康には安心に思えたのだ。
大樹寺の山門(三門)からは岡崎城が見える。
元康はなにを思ったのだろう、どんな気持ちだったのだろう…。
元康は寺の人たちに助けられ一生を得る。
“厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)”
家康はこの言葉を生涯自分の旗印として掲げる。
“乱れ、汚れた世を正す”
太平の世を目指し、“天下統一”へとここから再出発したのだ。
殿は家康の伯父が住職を務めた“法蔵寺”で家康の子供の頃を知る。
机の落書き、小さな手形からは子供らしさが、“武運長久”と書かれた書きものからは松平家を背負う覚悟や志が伺える。
ちなみに法蔵寺は新選組組長の“近藤勇”ゆかりの寺でもあるとか…。
駿府、華やかで雅な東海の都。
古き良きものを尊びながら、先進性もあわせ持った革新的な英雄のもとで育った“松平元康”はのちに“徳川家康”と改名。
多くの苦難を乗り越えて天下人となる。
〓大事件2.長篠、設楽原の戦い
1575年、家康34歳。
設楽原に流れる“連吾川”を境に、西に“織田・徳川連合軍”、東に“勝頼率いる武田軍”が布陣、両者がにらみ合った。
互いの距離は200メートル、離れている場所でも400メートルしかない。
設楽原合戦は狭い地域での戦だったのだ。
設楽原に信長が作った長大な“馬防柵”
この馬よけの柵に猛スピードで迫ってくる戦国最強といわれた“武田騎馬隊”を信長は火縄銃による“三段撃ち”で破った。
当時の火縄銃は撃つまでの準備に手間がかかるため、一列など少ない数での運用では次から次へと迫ってくる騎馬隊に追いつけず対抗できない。
それを信長は自慢の経済力、金にものをいわせ大量の鉄砲を用意(その数なんと3000丁とも!)、撃つ、準備するを交代で行う“連携プレー”でカバーした。
三段撃ちは完全にチームプレイ、相当な訓練が必要だっただろう。
設楽原を訪れた殿は実際に甲冑を着て三段撃ちを体験、秒で迫る騎馬兵の速さに驚く。
川から馬防柵までの距離は50メートル、5秒で敵が目の前に!
“武田信玄”や“大内義隆”などは昔ながらの“大鎧”を好んで着用したというが、この当時主流だった甲冑は動きやすさ重視でなんだか簡素なもの。
〓決断2.どうする松本潤!?
敵からかなり近い場所に陣を構えた家康、どう戦う?
1.おとりになって敵をおびきよせる。
2.柵の外で勇敢に戦う!
3.柵のなかで敵の出方を見る。
松本家康が下した決断は…(あえて書きません、本編で!)
家康が下した決断は…“1.と2.”両方をやった。
火縄銃、三段撃ちの威力を発揮させるには射程距離まで敵を近づけさせないといけない。
なので馬防柵の外に出て敵をおびきよせ、激戦を繰り広げた!
これはかなり危険なこと、それを家康と家臣団はやってのけた。
長篠、設楽原の戦いは武田軍が“奥平信昌”が守る“長篠城”を15000の兵で囲んだことからはじまる。
奥平勢は500、攻めればいくら“堅牢な城”といわれた長篠城でも簡単に落ちる。
…が、勝頼はそれをしない。
徳川家康という男は“仲間を命がけで守るのか”、“それとも見捨てる薄情者か”
武田の長篠城包囲は徳川家康という人間、姿勢を世間に知らしめるための目的があった。
このとき家康のもとに救援の要請に走った“鳥居強右衛門”の忠節は有名。
家康は信長に援軍を頼み、設楽原に布陣。
みずから一番危険な場所に陣取り激戦を繰り広げた。
この戦いで武田方の“山県昌景”、“馬場信春(馬場信房)”、“内藤昌豊(内藤昌秀)”、“土屋昌次(土屋昌続)”、“真田昌幸”の兄の“信綱”、“昌輝”が戦死(昌幸は勝頼の近くにいたため助かった)
勝頼は多くの有力な家臣を失い、以後“衰退の一途”をたどることになる。
この戦いのあと、家康は奮戦した奥平信昌に娘の“亀姫”を嫁がせて一門に迎え入れた。
奥平家は徳川家の親族衆として家康の天下統一の大きな力となる。
長篠、設楽原の戦いで家康は“仲間を見捨てない”、“信頼できる武将”として世間の信用を得ることに。
家康はどれだけ無理難題を押しつけられても信長との同盟を破らなかった。
殺伐とした戦国時代において約束を必ず守る人は稀有な存在。
家康の人から信用される、信頼される行動を心がけたことも天下人になれたひとつの要因だったのでは?と本郷さんはいう。
いつの時代も信用を得ることは難しく、失うことはたやすい。
〓大事件3.本能寺の変
最後は“本能寺の変(1582年)”、家康41歳。
実は6月11日で42歳になりましてm(_ _)m
同じくらいの年齢のときに家康はここまで上りつめていたのか…。
殿は三重県伊賀市へ!
信長の招きで家臣や“穴山梅雪(穴山信君)”らと“堺”にいた家康は本能寺の変を知る。
自分に敵対する勢力の一掃を図る“明智光秀”、身の危険を感じた家康は“34人の家臣”たちと共に“伊賀の峠”を越えることに。
家康は堺に遊びにきていただけなので十分な装備をもっていない…。
殿は本郷さんと共に伊賀の険しい峠道を歩く。
突然襲ってきた“一味”、その正体を探るべく、二人は“伊賀の里”へ。
民家に残っている土塁、それは戦乱の世の名残。
殿は“壬生野城跡”を訪れる。
伊賀はかつて“忍びの国”といわれた。
織田家と伊賀衆(忍者)の戦い、それを“天正伊賀の乱”という。
天正7年9月(1579年)、信長の次男“織田信雄”が独断で行った“第一次天正伊賀の乱”は大切な家臣“柘植三郎左衛門”を失うなど織田にとって散々な負け戦。
信雄の勝手な行動と惨敗ぶりに信長の怒りは爆発!
“親子の縁を切る”という書状を送りつけ信雄を震え上がらせる。
天正9年4月(1581年)、“第二次天正伊賀の乱”勃発。
織田信長による伊賀の国への報復攻撃、9000の相手に10万ともいわれる大兵力で攻め込み、敵対する伊賀の土豪、そこで暮らす普通の人々(住民、僧侶など)関係なく大量虐殺を行った(犠牲者は3万人にのぼる)
信長が掌握するまで戦国時代の伊賀の国は上忍“百地丹波(百地三太夫)”を筆頭に有力な国人12人(伊賀十二人衆)で“合議(話し合い)”をしながら“共同体”として独立的な自治を行ってきた。
伊賀の国の土豪たちは大きな勢力から小さなものまで合わせると約120、それらが600にもおよぶ城や砦、そして館に土塁を築き割拠していた。
信長が攻め滅ぼすまではいわば伊賀の国は戦国時代の“治外法権”、独立性が高く、世間一般的な法律、常識、ルールといったものが通用しない、よそ者が足を踏み入れてはいけない危険な場所だった。
第二次天正伊賀の乱のあとは伊賀3郡を信雄が、残りの1郡を信長の弟“織田信包”が統治していたが、伊賀の国の多くの首領たちは他国へ逃亡、ほとぼりが冷めた頃に戻ってきている。
織田家とそれに連なる者たちに恨み憎しみを抱く者たち、家康を襲ってきたのは伊賀の土豪、地侍の生き残りだった。
〓決断3.どうする松本潤!?
家康一行を襲ってくる伊賀者たち、危険な伊賀の峠をどうやって無事に越える?
1.戦ってひたすら敵を倒す!
2.猛ダッシュ、とにかく走って逃げる!
3.頭を下げ、褒美を約束、与えて平和に解決。
松本家康が下した決断は…(あえて書きません、本編で!)
家康は全部やった。
もうなりふり構ってられる状況じゃなかった。
有名な“十六神将図”、そこに描かれているのは筆頭に“酒井忠次(左衛門尉)”、中間管理職の“大久保忠世”とその弟で猛者として有名な“大久保忠佐”、“本多忠勝(平八郎)”、“榊原康政(小平太)”、“井伊直政(万千代)”の若手ホープ3人に“松平康忠”、“鳥居元忠(彦右衛門)”、“平岩親吉(七之助)”、“渡辺半蔵守綱”など忠義者の家臣たち16人。
伊賀者に顔が利く“服部半蔵”の姿も。
家康を助けたのは家臣たちだけではない。
堺で案内役を務めた織田家家臣の“長谷川秀一”と“西尾吉次(吉次は家康たちと一緒に三河に入り家臣になった)”、偶然堺にいた“佐久間安政(のちに家康の家臣になり大名に出世)”も家康に力を貸した。
甲賀の土豪“多羅尾光俊”など多くの“甲賀者”も家康を助けた。
一説には家康を主に助けたのは甲賀で伊賀は敵対する者が多かったとか。
家臣や周りの人々に救われた家康は無事、三河までたどり着く。
家康の周りには共に太平の世を目指す沢山の仲間、チームができていたのだ。
ちなみにどうする家康で絶賛暗躍中(この記事を執筆している時点では第23回まで観賞)の穴山梅雪は家康たちに疑いをもって別行動をとった、ただ遅れて家康一行との間に距離ができた、そのせいで落ち武者狩り、一揆に殺された、自害したなど様々な資料が残る。
豪遊のための旅費か、堺で珍しいものを手に入れようとしたのか。
梅雪がもっていたという大金、さらに武田の埋蔵金の場所が記された書付(地図のようなもの)はよく分からない連中に奪われてしまった。
〓#2回
家康が日々、熱心に取り組んでいたこととは?
第2弾では“松本潤さん”が徳川家康のプライベートを深掘り!
今回の旅のはじまりは京都、“知恩院”から。
旅をナビゲートしてくれるのは第1回でもお世話になった歴史学者で東京大学教授の“本郷和人”さん。
知恩院には徳川家康を知るための特別なものがあるという。
大きな葵の御紋に彩られた国宝“御影堂”
徳川家ゆかりの寺には家康公等身大の木像“徳川家康座像”が。
この木像は国の重要文化財で普段は非公開。
殿(松本潤さん)が“隆々としている”というその木像は薩摩型、なんだか“西郷隆盛”みたいな感じでどっしりとしていて力強い。
実際の家康を知る人たちが40歳くらいの徳川家康をイメージして彫った木像、生き写しといわれるくらい本人にそっくりなんだとか。
一本の木からこの姿を彫った職人さんたちはストレートにすごいなと思いました(笑)
家康の趣味、天下を取ることができた3つの秘密を松本家康が暴く!
〓天下取りの秘密.1 乗馬
殿は山梨県鳴沢村にある紅葉台木曽馬牧場を訪れ“木曽馬”に乗馬。
雨のなかでの乗馬は大変そう(汗)
この牧場は木曽馬など古くから日本にいる馬を育てている数少ない牧場だとか。
馬もイケメンが好き…(笑)
西洋の“サラブレッド”と“木曽馬”は見た目が全然違う。
木曽馬はサラブレッドより一回り小さいが、足が太くどっしりとしてなんだか逞しい。
信長の時代には南蛮貿易で西洋など異国の馬も入ってきていたらしいが、当時の多くの日本人は木曽馬のように小さくてゴツい馬に乗って戦っていた。
“ポニー”みたいな馬に乗って戦っていたって話をなにかで聞いた気がするけど、こんな感じだったんですねー。
自分の記憶だとドラマ、映画に出てくる武将はみんなサラブレッドに乗ってるので、それを木曽馬に置きかえると…武田の騎馬隊とかいろんな意味でイメージが変わってきますね(笑)
家康は若い頃から乗馬に熱心で70歳を過ぎても毎日馬に乗っていたとか。
今回殿がお世話になる木曽馬は“黒曜”
上手く乗りこなすにはまず姿勢が大事、体を馬の中心に合わせること。
重心が大事だそう。
はじめての木曽馬に慣れない殿だが、本郷さんも絶賛の運動神経と大河のために練習しているという馬術力ですぐに乗りこなす!
馬は自分の重心の移動だけで動いてくれる。
手綱、足、尻の位置…“馬に乗せてもらってる感じがする”という殿。
まさに人馬一体、馬が人間の意志をくんで動いてくれる。
馬は武士にとって戦友、パートナー。
乗馬が上手い武士は馬の上で弓を引いたり自由自在に戦う!
“大坂冬の陣”で独眼竜こと“伊達政宗”が実験的に投入したという“竜騎兵”が頭に浮かんだが、伊達の竜騎兵は馬の上で鉄砲をバンバン撃っていた訳ではなく、馬で素早く移動して鉄砲を撃つときは馬から下りて撃つスタイルということを執筆中に知った(笑)
馬術や馬との信頼関係がものをいうのは特に負け戦のとき。
大きく負傷して意識がもうろうとしているとき、乱戦状態で大混乱に陥ったとき。
助けてくれるのは馬。
1572年の三方ヶ原の戦いで家康は地獄を見る。
そのときも馬が家康を城まで連れ帰ってくれた。
馬術、馬との信頼関係、それが戦場での生死を分ける。
事を成すには生きていなくては、負けても生きてさえいればやりようがある!
だから家康はじめ当時の武士は一生懸命乗馬を練習したのだ。
〓1.松本家康ならどうする!?
家康は独特の馬の飼い方をしていた、それはどんな飼い方?
1.馬屋に蚊帳をつっていた。
2.お酒を飲ませていた。
3.ほったらかしにしていた。
殿のファイナルアンサーは…(あえて書きません、本編で!)
正解は…“3.ほったらかしにしていた”
家康の馬に対する考え方が伺えるエピソード。
“他の大名は夏には馬屋に蚊帳をかけて虫除けを、冬には布団を着せるなど馬をとても大事にしている。うちもそうしましょう!”
そういう家臣に家康は自然は自然のまま、馬は馬のままが一番いい。
それが一番心地いいはずだ。
馬にとって本当に良かったのかは分からないが、家康なりに馬の気持ちを大切にしたというエピソード。
家康のもとには他の大名たちが喉から手が出るほど欲しがるような名馬が沢山いたと思うのだが…(笑)
“天下の主といっても常々、習熟しないといけないのが乗馬と水泳である。
この二つは人に代わってもらうことができない技である”
戦で命を落とさないこと、危ないときはなりふり構わず逃げる!
家康は生き抜くための術を一生懸命習得した。
〓殿は名古屋城へ
“名古屋城”の見事な石垣の反り、この美しい曲線は“扇の勾配”と呼ばれている。
約36メートルある天守は昭和34年に復元されたもの。
石垣とあわせると高さ56メートル、ビル18階建てに相当するとか。
名古屋の象徴といっても過言ではない有名な金のシャチホコ“金鯱”の価値はなんとおよそ10億!
信長、秀吉が築いた城は黒に金の装飾が特徴だが、家康は白を好んだ。
なので名古屋城も全体的に白い。
尾張徳川家の主の屋敷“本丸御殿”は平成30年に復元。
“虎之間”はまんま虎だらけ!
客はここで虎たちににらまれながら神妙に殿様を待つのだ。
奥にあるのは“上洛殿”、将軍専用のVIPルーム。
鶴の姿が目を引く彫刻欄間、金の釘隠し、高い天井は格式の高さを表す。
細部にまでこだわり抜いたゴージャスな部屋。
“表書院”に描かれた大きな松は徳川家の永遠の繁栄を願うもの。
殿は徳川宗家19代に挨拶、話を聞く。
貴重な“三公集成”、それは信長、秀吉、家康の直筆の和歌を集めたもの。
信長の和歌、お題は“旅、白河関(しらかわのせき)”
“宮古をば なおはるばると旅立ちて
きょう仮寝する 白河関 信長”
いずれは奥州も自分のものにしてやる、その先もだ。
信長はみずからの野望を詠んだ。
“夕されば 誰(た)ぞや漫(すず)ろに言問(ことと)うは 窓のあたりの山おろしの風 てん下”
勘違いをユニークに詠んだ秀吉らしい歌。
自分の名前をてん下(殿下、天下人)と署名したところもまた面白い。
天下人としての孤独を詠んだのかも?と本郷さんはいう。
“嘆きつつ ひとり寝(ぬ)る夜の 明くる間は いかに久しきものとかは知る”
信長と秀吉はオリジナル、家康のみ百人一首53番“右大将道綱母”の歌。
19代目がいうように三公集成は信長、秀吉という二人の“天才”と徳川家康という一人の“秀才”を表現したものなのかも知れない。
〓天下取りの秘密.2 鷹狩り
殿は山梨県富士河口湖町へ。
殿を待っていたのは“シロオオタカ”、名前は特にないそう。
この純白なお姿…暴れん坊将軍で見たような(笑)
殿は家康が大好きだった“鷹狩り”にチャレンジ!
鷹狩りはまず“勢子(家臣や農民)”が獲物を威嚇、驚いて逃げ出した獲物を鷹が捕まえる。
そこに“鷹主”が走っていき、鷹が食べてしまう前に獲物を回収、鷹を褒めて終了!
家康は鷹狩りが大好きで死ぬまでに1000回以上も鷹狩りをした。
ときには地方に行き一ヶ月もの間、鷹狩り三昧。
5000人規模の大規模な鷹狩りイベントを開催するなどめちゃくちゃ鷹狩りが大好き!
60歳を過ぎても元気盛んに鷹狩りをしたそう。
鷹の体重は1キロ弱、意外と重い。
その鷹を腕に乗せ、90度の状態で不安定な道を勢子のスピードにあわせて歩く。
1キロの鉄アレイを腕に乗せてるのと同じだ…。
三回目のチャレンジで鷹が空気を読んでくれたおかげ?(笑)で成功!
徳川家康は鷹狩りを楽しむのと同時に健康を維持するための体作りに役立てた。
90歳まで生きた徳川家旗本で織田家庶流の“津田秀政”、108歳まで生きた“南光坊天海”(もっと生きていたという伝説もある!)もいるが、当時は人間50年の時代。
そんな時代に家康は75歳まで生きた。
ちなみに秀吉は62歳、ライバルといわれた“前田利家”62歳、“黒田官兵衛”59歳、秀吉子飼いのホープ“加藤清正”は49歳で亡くなっている。
“鷹狩りは筋肉を動かし、寒さ暑さに負けずに走ることで病気にかからなくなる。
そのうえ疲れるのでよく眠れる。
薬よりも健康によい”
鷹狩りのあとは食事タイム。
家康が食べていたというキジ鍋を再現、二人は堪能する。
キジ鍋のベースは家康が大好きだった“八丁味噌”、キジの骨でとっただしに合わせる。
甘くて美味しい…。
キジ鍋と一緒にキジ肉の塩麹焼き、麦飯を。
家康は健康のために白米ではなくあえて麦飯を食べ、温かいものを体に入れるようにした。
健康、長生きすることをルーティンとして日々の生活に組み込んでいたのだ。
〓2.松本家康ならどうする!?
鷹狩りに出発する時間、どうやって決める?
1.狙う獲物によって出発時間を決める。
2.占いで決める。
3.いつも同じ時間に出発する。
殿のファイナルアンサーは…(あえて書きません、本編で!)
家康は…“2.よりの3.”
最初は占いで決めていたそう。
でも途中から家臣など自分の趣味に付き合わされる人たちのことを考えて夏も冬も午前10時くらいに出かけるようになった。
“いい人、鷹狩りは現代のゴルフですね”
鷹狩りは家康と家臣たちのコミニュケーションの場でもあった。
〓戻って知恩院
家康の隣には母“於大の方”の木像が安置されている。
家康は岡崎に戻ったあと、幼い頃に生き別れた母親を自分のもとに呼んで生涯大切にした。
知恩院は母を弔うために家康が手厚く保護した寺。
家康の母への感謝の気持ちなのだ。
〓天下取りの秘密.3 香木
名古屋にある“徳川美術館”は徳川家のお宝が眠る場所。
尾張徳川家の具足、家康愛用の短刀、馬の轡など数々の貴重な品が展示されている。
3つめのキーワード、“香木”
香木といえば信長が半ば強引に切り取った東大寺正倉院の“蘭奢待”が有名。
琵琶のような姿が独特な蘭奢待。
足利義政、織田信長、明治天皇など限られた者のみがその香りを味わうことを許された。
家康は“羅国”、“降真香”などいい香りがする木を沢山集めた。
その重さは合わせて約330キロ!
現代でいえば香水を集めるようなもの(笑)
殿と本郷さんは“香道”を体験。
使用した香木は“伽羅(きゃら)”
香木を数ミリ、小さく削って火種の入った香炉の灰の上に乗せる、するといい香りが…。
香道の世界では香りを楽しむことを“聞く”という。
木に宿った魂、自然の声を聞く、会話する。
室町時代から身分の高い人々が教養のひとつとして学んだ香道の心や作法。
香道とは“自己”を知ること。
家康が香木にハマったのは50歳を過ぎてから、関ヶ原の戦いの前くらい。
天下取りに向けてのラストスパートの時期、家康は
“いま自分はどうするべきか?”
自分自身に問いかけていたのかも知れない。
家康が残した“香合せ覚書”、それは香りのレシピ。
殿は家康オリジナルブレンド“千年菊方”作りにチャレンジ!
熱帯アジア原産の“沈香”をベースにしびれ薬としても使われていた“丁字(クローブ)”、“ウコン”、“じゃこう”を練り合わせたものを丸く団子状に。
それを香炉で温めると…頭がスッキリ、冴える香りが漂う。
香木は家康の冷静な判断を支える重要なアイテムだった。
〓3.松本家康ならどうする!?
蘭奢待、それは天下第一の香木、国の宝物。
その見ることすら難しい蘭奢待に天下人となった家康は興味を示した。
どうする?
1.切り取って宝物にする。
2.家臣みんなで香りを味わう。
3.入れ物を新しくする。
“そんな高価なものをみんなでシェアするほど人が大きくなさそう…(笑)”
殿のファイナルアンサーは…(あえて書きません、本編で!)
正解は“3.入れ物を新しくする”
家康は新しい入れ物(慶長櫃)を贈った。
香木が大好きだった徳川家康だが、蘭奢待の声を聞くことはなかった。
〓天下分け目の関ヶ原
旅のラストは岐阜県関ケ原町。
古戦場の中心に建つ記念館から見渡せる風景に感慨もひとしお。
関ヶ原の戦いで家康が最初に陣取った“桃配山”も見える。
最新の研究では関ヶ原の戦いは一日どころか半日もかからなかった、午前中には決着が着いていたというものもあるそう。
本気で家康と戦ったのは石田三成隊(島左近、蒲生郷舎など)、小西行長、宇喜多秀家隊(明石全登)、大谷吉継隊、成り行きで西軍に参加した島津勢くらい。
あとは家康の調略による裏切り、保身のために自分から裏切るものなどが相次ぎ、西軍は崩壊する。
“厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)”の旗、家康最後の陣地で旅は終わりを迎える。
〓まとめ
徳川家康が天下を取れた大きな理由は二つあると思う。
ひとつはやはり、とにかくなにがあっても生き抜いたこと。
肉体面、精神面ともに健康に気をつかい、乗馬や水泳など生き抜く術を一生懸命学んだ。
薬に対する見識もそのひとつだろう。
生きてさえいればいろんなことができる。
人間50年、家康は人より25年も長く生きた。
その25年という時間はとてつもなく大きい。
もうひとつは好きなこと、自分がやりたいと思えることならずーっとやり続けられる人だったからじゃないか?
趣味もそうだし、天下を統一して太平の世を築くという志。
上手くいかなかったり、失敗しても途中で投げださない。
嫌にならずに逆に失敗を糧としてコツコツやり続けることができる人。
“家康はとにかく生きて、目標目指してめげずにやり続けた”
これが成功に繋がった一番の理由だと思う。
個人的な徳川家康のイメージは俗物、人間くさい人。
女好きなスケベ親父で喜怒哀楽が激しい短気な人だ。
どうする家康の徳川家康は松本潤さんなので露骨にスケベな人という描かれ方はもちろんされてないけど、23回時点でも複数の女性が登場しているように相当なエロ親父だったようで…。
大河だと“秀吉”の“西村雅彦さん”が演じた徳川家康がすごく好き。
あの得体の知れない底深さ、小牧・長久手の戦いで秀吉勢をめった打ちにするあの最強感。
どうする家康の徳川家康は信長とかにも結構言ったりするけど、自分のなかの家康は相手を選ぶイメージがある。
短気ですぐイラッとするが、それを自分でセーブできる人。
信長や天下人になった秀吉などの前ではそのイライラを決して表にださない。
どれだけ嫌なことを言われたり、やれと言われても目的のためなら我慢できる。
でも家臣や問題ない相手には遠慮なくイライラをぶつける。
どうする家康で数正に情が薄いと言ったり左衛門尉にお前は学がないと言ったりするあの感じ。
この家康本来の傲慢さは秀吉の下、“大老”になったくらいからより顕著になってくる。
家康は決して聖人君子ではない。
“太平の世を作る”
それが自分や一族が繁栄していくのに一番だと思った。
自分たちの繁栄のためには綺麗ごとだけじゃなく、必要悪として汚いこともやった。
家臣や他の大名の多くが同じ考えのもと、太平の世を望み、家康についてきた。
だから家康は天下人になれたのだ。
もちろんリーダーになるには軍事、政治に突出した才能が必要。
天下第一の才能が必要だ。
でも家康の突出した力は信長や秀吉のような天才的なものなどではなく、幼い頃から学び、失敗し、そこから学び、コツコツと積み上げてきた結果、努力の結晶なのではないか?
“1603年、家康は62歳で江戸幕府を開く”
松本潤さんと徳川家康の素顔を見れた気がします、面白かったです!