「適性」とか「自分探し」とか「悟り」とか
就職活動でよく、
「適性」とか「自分のやりたいこと」とか「自分の向いていること」
ってあるじゃないですか。
自分とは何者か、自分はどこから来たのか、
自分はなぜ生まれたのか、自分がこの人生で何をなすのか、
自分が向いていることは何か、自分が好きなことはなにか。
そういう、「自分とはなにかがわかること」「自分とは何者かが自分でわかること」、というのは、仏教用語でいうと、「悟り」という言葉で表します。
私は学生時代、宗教学/文化人類学の専門でした。
「悟り」という言葉、これは広義にはとても深淵な世界で、人が半年や数か月悩んだ位で答えが出てくるものではなく、そしてこの「悟り」への道というのは、約2000年前にキリストがなくなり、あるいは2500年前ぐらいにブッダがなくなってから、みんないろんなことを、いろんな解釈で書き綴って来ていて。
例えば岩波文庫に「ブッダのことば」といった、中村元さんによるブッダが何を語ったかについての本があるのですが、岩波文庫だけみてもその仏教的な視点からの”悟り”を説いた本は、大量にあります。
みんなわからないから、みんないろんな本を書いて意見を述べて、思想を語って、過去の史上で悟りを得た人が言われた言葉をさまざまに解釈していって後世で伝えていって(仏教ひとつとっても、ブッダが言われたことの解釈が違うからこそ色んな流派が現代に派生しているわけです)、そしてみんな、他の人が書いたのを参考にするために、自分の生き方をよりよくしたり、とりいれたり、時間を潰したり、あるいはひょっとしたら無意味だったり、縁だったり、いろんなきっかけで、読む。
それは永遠なる道のりで、今生で答えを探して答えがでるかも怪しいくらいにいろんな人がいろんな書物を残しているのに(仏教的にいうと、魂を進化させて悟りを得ていくために何度も生まれかわっている、という考え方もあります)、それを就職活動という、外的要因によって区切られた半年や1年でさがすのは相当な困難です。
こっちの分野かな?ってなんとなくわかる人もいたりするかもしれないけれど、だから10代の終わりとか20代のはじめとかの年齢で、今すぐなにがやりたいかわからない、とか向いているかわからない、とか、自分が興味のことがあるかわからないとか、そういうことで自分を責める必要は全然なくて。
「わからない」のはいたって普通のことで、どのレベルで自分というものがしっくりくるかという、そういうのに出会えるかどうかはいろんなご縁で早いひとと遅いひとがあって。ひょっとしたら社会人をやっているみんなわかっている「ふり」「思いこみ」をしているだけかもしれなくて。みんな悩みながら生きていて、そのふとした疑問を、仕事に熱中したりお酒やたばこや趣味でかきけしているだけかもしれなくて。
結局は、社会に揉まれて右往左往しても、どんなに素敵な恋人がいても、外側の豪華さや外側のキャリアをどんなに積み重ねて行っても、それは一時的なもので、人様の心も物質的豊かさもかたちとどめずかわっていくもので、外側の世界を以って「自分とは何者なのか」の悟りは開かれるものではなく、ブッダが菩提樹の下で行なったという「瞑想」で自分の内側を旅してはじめて悟りへの道の第一歩がひらかれるものだそうで。(ちなみに瞑想をしている人が全員悟っているかと言うとそうではないので、こういう内側への旅は知りうる限り良い先生につくのが大事)
(↑本の著者はヨガ瞑想の世界的第一人者で、国連で平和のスピーチなどされている)
でもなにはともあれ、いろんな人に会ってみて、いろんな会社のHPや説明会をのぞいてみて、こういう業界の人なら自分がストレスが少なめに仕事できるかなとか、こういう人が先輩ならなんだか居心地が良く仕事できるかなとか、あるいは、終身雇用の時代でもないから、定時きっかりに帰れる雇用形態で働いてみて、興味のある活動してみるとか、でそういうのの温度感を探っていく、ということだと思う。外側の華やかさではなく、少しでも居心地の良さ、心の安定ができそうなところをさがしていく。
小さい頃、身体にいいからと熱いお風呂に100数えるまでつかされたりしませんでしたか?
熱いお湯が身体にいいかどうかって、個人や年齢や体調によるのと同じように、熱血な職場環境、他人が良いと勧める企業 があなたにとってに心地いいものかどうかって、人それぞれですよね。
昔私が占い館で働いていたとき、よくお客様に聞かれました。
「自分が生まれた意味」「自分の適職」
こういうのは、すぐに答えは出ないから、
数か月とか半年とか1年とかで答えの出せない自分をどうか、責めないで。
※この記事は投げ銭制です
Спасибо Вам большое:)♡!!! ありがとうございます:)♡!!!