「沼」
久しぶりに師匠とゆっくり話した。
「もはや後戻りできない「沼」まで連れてきてしまったので一抹の責任を感じている。」
と師匠がおっしゃった。
なにしろ観光客も来ないこの数年、さらに2月からの世界的な情勢変化で「○○○」という単語だけでこのブログにさえ注意書きが自動に走る外国語を私は生業にする覚悟をしつつある。
(私は昔からブログというものを自分の存在を賭けて書いてきた。この安易な思考停止の走り書きは何とかならないのか。)
一抹の責任を感じる、と私の大好きな師匠は仰ったけれども。
責任を感じる必要は全くなく、私がエンエンと泣きながら(なにしろ私は本当によく泣く)師匠に毎週会えるときも、何年も会えないときも、自分の意志でとぼとぼと10余年辞めずについてきただけで、私は小さいころからこれに興味があって。
休むと電話をくださった純情な恩師多喜子先生の純粋さやいつも優しく勇気づけてくださる先生がたのやさしさを裏切れない。それらは私の生き方が狭められているのではなく、単純にほかに考えられない。
なにしろ生徒さんにとってものすごく負荷のかかる教え方をしているのは承知の上で。
とくにお仕事をしながら通われる生徒さんは猛烈に大変だと思う。みなさん様々な環境があり、体力だけでなく思考力も感情も使うお仕事をされている方もいる。
私も生徒だった2010年当時、その当時のちっぽけな私なりに無茶苦茶な思いをして通った。会社から行くと学校の授業開始に間に合わないので、わざわざ葉山に出張とか入れて直帰にして代々木に通っていた。
当時怪我の後遺症もあって体調も無茶苦茶だったし、DVの彼氏と付き合っていたので感情も無茶苦茶だったし、なにがなんだかわからない感情だった。
目の前の予習も勉強も思うようにはかどらない環境・体調・精神状態のなかで、それでも勉強したかったというか、その外国語につながっていたいという強烈なあこがれがあった。
だから縁のある方たちは楽しく通ってほしいし、私や師匠が昔そうであったように「予習できてなかったけれど今日も来てよかった」と思ってもらいたいし、やっぱり語学できるようになってもっと豊かに生きてほしい。
先週、授業で間違ったことを教えてしまった。来週すぐ訂正して謝らなきゃならない。
それでも喜んで通って下さる生徒さん。ものすごく忙しいのに時間をつくってくださる生徒さん。
「教師の役目は生徒さんを勇気づけること」(K先生)