助けてくれた人たちのこと、ヒマラヤ瞑想のこと
20代はすごく感受性の強い子だった。
学生時代の専門も文化人類学とか宗教学とか、特に企業の人が積極的に採りたい学問ではなかったし、高校時代の親友の列車の事故死をきっかけに人身事故とか予知しちゃう子になったし、すぐ泣くし、PMS(婦人科系の不順による情緒不安定)もものすごくひどくて、大学3、4年、とても社会人になれるか怪しい感じだった。
感受性が強いままに強くなる方法はないのか、ということを一番悩んでいたのが2006年、今から13年前ぐらい、当時すごく私のことを気にかけてくださっていた中国語のM先生が、冬にご自身の香港の調査旅行に連れて行ってくれた。
M先生がなんで、学者になりたいわけでもない私に、あんなにもよくしてくださっていたのか(男性だったけどもちろんセクハラ的なことも一切されたことがない)、今思うと、私にはなんの専門性も熱心さもなかったけれども、私の当時の純粋さとか素直さのようなものを買ってくれていたのだと思う。
香港で街なかを一人でふらふらあるいて、迷い込んだ道教のお寺で故人の写真が生生しくて、夜に寮に帰ってきて、憑かれたように先生の前でまた泣いていたりとかした(今思うと先生は調査できているのに、学生に泣かれてさぞ迷惑だったろうと思う)。
その後就職活動というものを一応して、M先生の勧めで出版社とか、受けた。M先生は非常勤講師だったけれど、ご自分の同期で、出版で活躍している人と話をして、私がその人にOB訪問できるように、取り計らってくれたりした。
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手帳で有名な某出版社の最終面接まで行って、内定でそうになって、でもやっぱりなにか違うような気がしていたら、人事のオジイチャンみたいな人が、社員面談をさせてくれた。若い女性の社員の人と、部長みたいな人とざっくばらんに話す、というのが1回ずつ、2セット。
女性の社員の人は、今ちょうど季節的に、来年の手帳の仕上げをしているところだそうで、帰りがけに、エレベーターのところで私の質問に対して、「うーん、今日は22時ぐらいまで残業かな」とおっしゃった。
部長みたいな人は私との面談で、その頃その会社でベストセラーになった朝ウォーキングについての本を例に挙げた。
「歩くと痩せる、一駅ぶん毎朝歩きましょう。当たり前のことを書くだけで、売れるんです。それで、売上から給料をもらって、家族と一緒に年に1回ハワイに行ける。売れるから問題ない。ありがたいことです。」
そういう面談があって、部長みたいな人とそういう話をしたという事実と自分の中の違和感みたいなのを当時のSNSのmixiの日記に書いたら、M先生がそれを読んでくれていて、後日、直接はっきり言われたわけではないけれども、会話の中で、あの会社は辞退したほうがいいのではないかという結論に達した。M先生は私に仰った。
「だって哲学がないじゃないですか」
そういうわけでその会社は辞退することにした。
あの出版社の人事のおじいちゃんはその時の就職活動で私が出会った中で一番良い人だったけど、それを辞退の電話でご本人に言ったら「そんなことはどうでもいいことなんです(あなたの人生が大事です)」というようなことをおっしゃった。
それきりその出版社の本は買っていない。
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学生時代の終わりころ、通っていた整体の担当の先生と、駅前のスターバックスで遭遇した。(PMSが酷かったので整体に通っていた。)
「僕、もうすぐ仕事を辞めて、インドに行くから」ということで、連絡先を交換した。今から12年くらい前の話。
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その後色々あって、一応出版社という括りの、社会人になった。埋立地にある社屋で、ガラス張りの執務室は金魚鉢みたいで、苦しくて、交通事故の怪我で会社に行くのも精一杯というか生きているのも精一杯レベルでわけがわからなかったし、PMSやら身体はひどくなる一方だし、耳鳴りがひどかった。
当時付き合っていた人はデートDVがひどくて、というか某格闘技の世界チャンピオンを何連覇もしている人だったので、物理的に「素手で」人を殺すスキルがありすぎるので流石にフィジカルな暴力はなかったけれども言葉の暴力がすごくて、
上司もすごいパワハラで、そこから逃れる方法もわからなかった。
けれども別れる勇気も、会社をやめてどうにかする体力も気力もなかった。
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たくさんのスピリチュアルに手をだした。神社仏閣めぐりはもちろん、占い、エネルギーワーク、たくさんのまやかしで本物ではないスピリチュアルに手を出して、お金をたくさん使った。
今思うと、巷の占いやエネルギーワークは、お金とエネルギーを交換し合っているだけで、なんの解決にもならなかった。表面上の状況は多少変わらなくもないけれどもその変わらなくもないというのが落とし穴で、さらに泥沼にはまっていった。
あの頃無駄なスピリチュアルに投じたお金が残っていたら、世界3周旅行ぐらいできたと思う。
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やがて私の敬愛してやまない、学者で温厚だった祖父、聡明で情緒豊かな祖母が逝去していった。
祖父母の死を経て、自分が祖父母から、能力的にも、情緒的にもいいものをもらっているのに、それを全く生かせて生きていない自分の状況にとても苛つきながら、
それでも思うように動かない身体と会社員生活に日々をこなすだけで精一杯な日々を過ごしていた。
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翌お正月に、インドに行っていた整体の先生Kさんから年賀状が届く。
「帰国して、鎌倉で整体院を開業しました」ということで、初夏に遊びにいった。先生、と言っても年の近い友人のような方で、
少し鎌倉でお昼を食べて、コーヒーを飲んでから帰ることになった。
その時に喫茶店で、とある本をいただいた。
この方のもとで、ヒマラヤシッダー瞑想を習っている、ということをお話してくださった。
私はその時の彼の話を「ふーん」という感じで聞き流して、もらった本はしっかり読むという感じでもなく、ただ信頼している友人にもらった本だから、捨てない。という感じで、ずっと部屋に置いてあった。
ただその後も時々彼と会って、ヨガ教室(スポーツクラブの体操のヨガ)に通い、いろんなスピリチュアルに手を出していた私に、
瞑想がヨガの8段階のうちの最終段階であること、体操(アーサナ)のヨガは8段階のうちの下から三番目であること。そしてそういう世界は、一番いい先生に習うのがいい、というようなこと。以前プレゼントしてくれた本は、もともと日本の体操のヨガの第一人者だったけれど、ヒマラヤで最終段階まで修行をした方で、一番良い先生であること、などを日常の雑談をする中で、折々に、伝えてくれた。
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2011年の3月12日、わたしは宮城に行って、人と会う約束をしていた。大船渡。
それで、3.11が起こった。私はその時、都内の会社で、昼に上司と顧客のサーバールーム巡りをしていて、帰社したところだった。
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そういう中でロシア語の学校に通い出して、ふたたび私のことを助けてくれた人たちがたくさんでてきた。
本当に、魔法みたいだけれども、いろんな縁がつながりあって、結果的に会社を辞められることになった。
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7年ほど勤めた会社をやっと辞めて、海外で2年ほど暮らした。
語学を仕事にしたい、言葉を仕事にしたい、海外への憧れ。
そうしたものが小さいころから強烈にあった。
住んだ街はとても美しく、毎日真っ青な空を眺め、美しい音楽があふれ、人々は素朴で優しく、人生はなんて美しいのだろう、と思った。
滞在中、近隣の国々にたくさんに旅行をした。
けれども海外のどんなに美しい景色を眺めても、どんなに美味しいものを食べても、どんなに旅行をしても、
心のざわざわは消えなかった。
自分はなぜ生まれたのか、自分の能力をどうにかして育てて生かして生きることはできないか、帰国したら仕事はどうすればいいのか。
外国語が全然できるようにならない、好きな人ともうまくいかない、年齢的にも結婚しなければならないけれども、この先どうしよう。
そうしたような事柄がいつも頭の中を取り巻いていた。
そして旅先の町で貧しい人や怪我、病気の人を見るたびに、神様はどうして人に平等に苦しみを与えないんだろう、というようなことを考えて、旅先の聖堂を沢山まわったけれども、答えはわからなかった。
バルト海の美しい琥珀を沢山買って帰ったけれども、私の心のざわざわはなんにも変わらなかった。常に何かが不安で、周りの人が自分のことをどう思っているかが不安で、人と比較してばかりで不安で、いつも不安で、しょっちゅう家族と喧嘩をしたり、PMSのたびに、あるいは何かあるたびにしょっちゅう泣いていた。
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帰国後、父が大きな手術することになった。
手術の日、不安のあまりに姉妹で大喧嘩をした。
相手の非を責めるような言い方をし、相手が悪い、そういう喧嘩をした。
親、姉たち、祖父母、伯母やいとこ、社会で出会う人々、小さい頃から私はいつもコミュニティで一番年下で、みんな良い人たちで、いろんな人たちにいつもよくしてもらい、譲ってもらってきた。
「若くてかわいらしいからそうしてもらってあたりまえ」そういう姿勢のまま、大人になった。
今思うとそういう傲慢な性格で人間関係がうまく行かないのはあたりまえなわけで。
姉と大喧嘩をして、こういう性格だと、両親がいつの日か他界したあと、相続などの争いになるのでは、というような恐れがふと頭をよぎった。
小さい頃からかわいがってくれた姉たちのことは大好きなのに、今の自分の性格では、そういう人生しか選択できない。それ以外の方法がわからなかった。
自分のこの先の人生は本当にそれでいいのか、と思った。
その時の人間関係も同様で、相手が変わっても、好きになった男性から強くて高圧的な言葉を投げられ、振り回されたり、そういうことが20代の時と、まったく変わらなかった。
普段は一見とても上品で人当たりの良い人なので、相手を選んでわたしにそういうことを言うとしか思えなかった。こういう種類の人ばかり好きになっている自分ではとてもじゃないけれど、誰かと結婚して祖父母のようなおしどり夫婦になれる道は見えなかった。
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あまりに苦しすぎて、20代の頃からよくしてもらっていた、易者の古い知人、Yさんに相談した。
こんな回答をもらった。
「私が易者として30年以上人の相談に乗ってきて言えるのは、うまくいかない人間関係、離婚やDV関係を繰り返してしまう人というのは、
後天的な家庭環境や考え方のクセに加え、先天的に先祖などからもらって背負ってきた運命もあるので、それを自分自身から引き離して、俯瞰して観察して、超えていかないと、運命は改善しない。」
その方法が、自分の内側を観察していくという『瞑想』という手法であり、現代社会で私たちが知りうる限り一番いい先生が、あの日鎌倉でもらった本の、著者である。
あの日鎌倉でもらっていた本は相川圭子さんという人の本で、そこにはヒマラヤシッダー瞑想というものがどういうものか、書いてあった。
鎌倉で初めてKさんに本をもらったときから、10年近く、経っていた。
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その方はヨガ・瞑想の世界的な第一人者として、国連で平和のスピーチをしたり、インドのみならずロシア、ウクライナ、ヨーロッパ、アメリカ、メキシコなどを精力的に訪問していた。各国首脳と面談したり、平和の講演や、東京はじめ全国各地、アメリカのニューヨークや、世界各国で、ヒマラヤ瞑想の指導など、されていた。
宗教学を専門としていたわりには私はそのヒマラヤの瞑想が、怪しい新興宗教との区別もついていないまま、ただただ一番信用している友人が通っていて、安全で一番良いとおすすめしてくれたという、ただそれだけの勢いで、清水の舞台から飛び降りるか尼寺に出家をするような勢いで、その方に直接習うことにした。(※実際出家する必要はなく、ヒマラヤの聖者に弟子入りをしたいという意思と続けていく気持ちがあれば原則誰でも習える。)
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ヒマラヤ瞑想をはじめたい人のためのガイダンスに行った日、「石の上にも3年といいますから、まずは3年続けてみてくださいね」と言われたけれど、2年も経つと、結果的に、親とほとんど喧嘩をしなくなった。
職場で隣のおばさんに言われた言葉、上司が言った言葉が自分に突き刺さって、後で家に帰って一人で泣くことは日常茶飯事、毎週あったけれど、そういうことも段々減っていった。
外から、先生からこう言われたからこう、という刷り込みによる洗脳ではなく、起こることの事象を自分で気づいていった。起こることを他人のせいに、段々としなくなっていった。
若い頃、父は徹夜で仕事してたから身体が辛くて、いつも怒鳴っていたんだな、とか、私のことを心配するからこそ怒っているんだな、私のものの言い方に敬意が足りなかったから、怒らせてしまったんだな、というようなことに、だんだんと気づいていった。
だんだんと嫌いな飲み会や嫌いな職場の空気、DV男との縁がだんだんと淘汰されていって、気づいたら好きな人、穏やかな人との縁だけになっていった。DVな人、いまでもたまに引き当てちゃうこともあるけれど(笑)、そういう人もこちらがなにもせずとも、自分から勝手に去っていくようになった。
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宗教、というのは先生がこう言ったからこうなのだ、教義はこうだから、と自分の心をどんどんがんじがらめにしていくのだけれども、
瞑想、というのは自分の心の中を安全に旅する方法なので、自分で「気付き」が起こる。
若い頃の父があんなに怒って怖かったのは徹夜で仕事をしていたからだ、とか、姉があのときあんなに怒ったのは私のものの言い方に敬意が足りなかったからだ、というのに気づいていく。
それが宗教とヒマラヤ瞑想の違い。5000年の歴史がある、あらゆる現代宗教が始まる前のさらにまえにヒマラヤの聖者たちがみつけた教え。伝統的な瞑想方法を直接に教えてもらえる。
ヨガは八段階あり、日本で現在流行っているスポーツクラブのヨガ(体操のヨガ。アーサナ)は下から三番目の段階で、相川圭子先生はもともと、70-80年代、そのアーサナのヨガの日本の先駆けだった。日本のショッピングモール、マルイや西武など、そういうモールの上層階で体操のヨガスタジオがあるけれども、そういうのもぜんぶ相川先生が70年代、80年代のアイデアではじめたことだった。
その後、相川先生はヒマラヤで修業され、ヨガの最終段階まで到達して、インド政府から公認の、現代社会でいま世界で二人だけ会える、シッダーマスター(悟りを得た聖者。インドで一番高い位。)となっている。
そのヒマラヤでの修行については、2006年の著書に書いてある。(初期の出版物で詳細に書いてある)
あっさりと書くけれども、自分の内側を旅していくというのは、一番いい先生につかないと本当になんの意味もないどころか、怖いことが起こりうる。人間の精神の奥深くに何が潜んでいるかわからなくて、ほかのひとでは責任がとれないから。そして一番いい先生は現代世界で今二人いらして、そのうちの一人はインドのパイロット・ババジというインドで一番位の高い僧なのでめったに会えないし、そもそも信仰の国なのでそういうことはインドで教えていない。もうひとりは偶然日本人なのでテレビやラジオ、Youtubeや本で、日本語で話が聞ける。
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話は私自身のことに戻る。
最近、ほんとうにおそらく今年になってから知ったことだけれど、友人のK先生はあの時なぜ整体院を辞めたのかというと、インドを放浪し、アメリカを放浪し、人生の師を探していたということだった。
あるとき、インドで出会った聖者に、「現代日本にほかでもない大聖者がいる」、ということを教わり、帰国して、その本を買い「これだ!」と思い、すぐにヒマラヤの瞑想をはじめるべく、電話をかけたそうだ。
彼はそうした苦労変遷を全く私に話すことなく、友人として時々会って、
まやかしのスピリチュアルに惑わされてぐるぐるして怒って泣いている私に、ヒマラヤの瞑想を強制することなく、温かく見守って、ヒントをくれた。彼の持っていたものは、どんなスピリチュアルよりも、どんな宗教よりも、知りうる限り一番良い情報だった。
彼と出会って、あの日スターバックスで連絡先を交換して、
ご本をいただいくというご縁がなかったら、今ほんとうに、こんなに穏やかな状況にはならなかった。
今思えば、3.11の時、すでに神様のお守りが始まっていたのだと思う。地殻の変動がもう半日ぐらいずれていたら、私はこの世にいなかった。
※
とはいえ別に、いまの自分も仏みたいに怒らないわけではなく、普通に怒るし、普通に喧嘩もする。悪口もいう。悟りを得たわけではないので普通に悩む。
でもあとで言い過ぎちゃったなって反省したり、後で謝ったり、お詫びにリンゴを持っていったり、そういうことが、ちょっとできるようになった。
ぐるぐると心が無駄に消耗することがなくなってきて、必要な時に悩んで、必要なときに休んで、目の前のある事柄にちょっとずつ集中できるようになってきた。
※
20歳の頃とても素直で、M先生がわたしのその素直さを買っていろんなところに連れて行ってくれたり、いろんな美味しいもの食べさせてくれたり、そういうころの自分に多少戻れたような気もする。
思い返すと2017年の夏に通い始めて、そのあとすぐにずっとやりたかった外国語の仕事の縁をいただけるようになった。仕事でも良いご縁に恵まれ、変な上司や同僚もいないし、PMSに振り回されて号泣することもなくなったし、人身事故を予知して泣くこともなくなった。
駅でバスを待つ10分の冬の風のさむさが、なんだか心地よくて、バスに乗ったら街は黄金色の銀杏並木に溢れていることに気づけて、こういう時間もいいなあと思える余裕が少しできた。
20代だったころは耳鳴りがひどくて、それどころではなかった。
あたらしく知り合ったり、ほんとうに忘れていたところから昔の縁が復活したりして、小さいころに私が包まれていたように、静かであったかい人に、また縁ができるようになってきた。
感受性が豊かなまま強くなりたい、というのが少しだけ、叶ってきた気がしている。
あの3.11の日、かみさまに救ってもらったこの命を、これからどう生かしていくか。
↓これ↓がその時鎌倉でもらった本。
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世界に2人だけのヒマラヤ大聖者。ヨガ・瞑想の世界的第一人者。
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