母の戯言
母はいつも同じ話を繰り返す。
母の姉、私の伯母にあたる人は長い時間、持病と付き合いながら人生を過ごしてきた。時には入院し寝たきりで過ごし、時には元気そうに。
元気にとは言え私の記憶の伯母はとうの昔から足を悪くし、座りっぱなしだった。外に出られず小さなアパートで過ごす伯母は小さく、白く、やけに不自由そうに見えた。
だけれど、私が母に連れられ訪れば、印象からは想像もつかないほど強い力で私の手を握り「来てくれてありがとう」と小遣いを握らせ、涙ぐむ。
特に彼女と話す事はないし、やけに小さく、そして他人の生活感のある空間が私は苦手だった。しかしその伯母の握る手の強さに、何かへの強い執念のようなものを感じ、私は母に言われればその通りに伯母の元へ足を運ぶのだった。
伯母はかつて、地元の田舎では有名なお嬢様だった。
家柄が特に良いわけではないが、田舎では引く手数多の存在。小さい頃から可愛がられ、素直に可憐に育ち、伯母はピアノの先生を始める。
音楽に長けた家系であるから、その職選びは正しかったのだと思う。
あれよと言う間に生徒は増え、教室は大きくなり、彼女は生き生きと過ごしていた。彼女に憧れる人は多く、彼女の妹である私の母もそのひとりだった。
男勝りで近所の子供を引き連れていたガキ大将の逸話を持つ私の母は、病弱でどこか儚い姉を慕い、憧れ、世話を焼き、彼女が完璧ではない人と結婚をしてもそれは続いた。
彼女の夫になった男は、職人気質な不器用な人であった。
叔母の親交を制限して自分だけの世界に閉じ込めるような、今で言うとモラハラのようなものだったかもしれない。けれども彼女はそれを愛だと受け止めてたくさんの求婚を振り切ってその人の家族になる。
結局家族は最後までその、ふたりきりであった。
私の伯父になった人は不器用で、私の祖母、所謂義理の母と呼ばれる人と相性が悪かった。母は事あるごとに仲裁をし、間を取り持っていた。祖母の機嫌を取り、世話を焼き、看取ったその日も母は気丈に振舞っていたことを覚えている。
祖母が病室で息を引き取った時、もう生きてはいない祖母に繋がれた計器の針が動く度、看護師は「機械の性質でこういった反応が見られます」と私たちの目を見ずに言う。確かに存在していた祖母が、この世にいなくなった悲しみはピーピーと誤作動を起こす機械にかき消されていくようだった。
当時制服を着て祖母の病室に駆け込んだ私は、目線を落として胸元のスカーフに付いた何かの汚れを見つめていた。左では姉がむせび泣いていて、右隣では母が何かに大きく頷きながら、世話をしてくれていた看護師に感謝を述べている。
私は泣きも、誰かを励ますこともできずにいた。ただその場に立って、一人の人間がこの世から去る瞬間に立ち会っていた。
そこに叔母が立ち会うことはなかったが、小さく開かれた葬式では母に支えられていつまでも泣いていた。その代わりに母は涙なんてひとつも見せずに喪主として式を取り仕切っていた。
その時も私は悲しみに浸るでも、祖母に思いを寄せるでもなく、参列している人を眺めていた。父はきびきびと動いていたし、姉は当時付き合っていた恋人に支えられていた。祖母の友人は棺に寄りかかりながら、先にいくなんてひどいと大きな声で泣いた。
私は祖母が大好きだった。女の子に学歴はいらないとか、当時18の私に向かって行き遅れたら大変だよと脅しをかけるような人だった。けれどそれで嫌いになる事はない。彼女は彼女の価値観で、私を導こうとしている。幼い頃はもしかすると悩んだのかもしれないけれど、彼女の価値観そのままに生きようなんて思った事はないし、かと言って彼女を拒絶しようとも思わなかった。
ただ、幼い私の手を引いて何時間も歩いてくれた記憶だけで、私は彼女を永遠に愛せる気がしている。
祖母が亡くなって、10年後。叔母が亡くなった。
まだまだ若い年齢だった。
最後は歩く事もままならない、そんな状態で伯母は亡くなった。
経は伯父があげた。
本当に身内だけの通夜だった。
お納めの式を終えて、いよいよ伯母が火葬場へしまわれていく。
その時、隣に立っていた母が全身を震わせながら「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と泣いた。涙はぽろぽろと流れて、薄い生地のハンカチは彼女の涙で透けていく。どんな時も気丈に笑っていた母が、こんな姿になる事がおそろしく悲しくて、肩を抱き寄せ背中をさすりながら、私も泣いた。
これで母と血の繋がった家族は、私と姉のふたりだけになった。
母はいつも同じ話を繰り返す。
大好きだった母や姉の話、私達娘がいかに愛されていたのかという話だ。
彼女の記憶を少しでも彩りたくて、私は彼女が知らないかもしれない自分の記憶を辿る。こんな事を言っていた、こんな事をしてくれた。そういう話をすると母は決まって「あの人らしいね」と笑う。
私は母に幸せでいて欲しい。
悲しい事もあったけれど、良い人生だったと思って欲しい。
失ったもの以上に、彼女に何かを与えたい。
そんな傲慢な気持ちで私は今日を生きている。
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