見出し画像

#125 「B’z presents UNITE #01」感想と考察〜好敵手と追随者……このライブは「コンサート」ではなく「ドラマ」だった〜

9月、まあ確実にJ-POP史上に残るイベントが大阪で行われた。


「B’z presents UNITE #01」である。


簡単に概要を説明すると、まぁ、ざっくり一言で言えばB’zが主催する対バンである。そしてその対バンの相手はMr.Children、そしてGLAYだった。
9月18日と19日に大阪でミスチルと、そして9月28日と29日に横浜でGLAYとのライブを行い、ミスチル編が10月4〜10日、GLAY編が10月11〜17日の1週間限定で配信される。こんなクソ豪華な対バン、出来ればコロナのない世界の中で見たかったけど、イベント趣旨的にはコロナ禍が前提にあった訳で、さしずめ時代が生んだ奇跡みたいな対バンと言ったところだろうか。

セットリストに関しては、以下のページを参照してほしい。



このライブを語る人の立場はかなり多岐に渡るだろうから、まずは自分の立場から整理しておきたい。
まず第一に、私はGLAYファンである。その辺りは過去のnoteでも触れたが、親が大ファンだった影響で幼稚園の時から「DRIVE」というベストアルバムで過去を洗い、「ONE LOVE」という当時の最新アルバムで今に触れた。言ってしまえば、24歳ながらファン歴20年である。初めて行ったライブも、大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパンでのGLAY EXPO 2004だった。



そして、少なくとも現代に生きる人間は間違いなくB’zとミスチルに触れる瞬間は一度は訪れる。そこで好きになるか否かはまた別の話だが、最低限のメディアにさえ触れられる環境ならば、少なくともB’zとミスチルの存在を知らずして人生を終える事はないだろう。その過程の中で私は、B’zにしてもミスチルにしても、アルバムやカップリングまで網羅するほどでは無いにしても好きになった。B’zに関してはチケット争奪戦に参戦した事もある。呆気なく散ったけど。

とりあえず、これが私の立場だ。
その上で見た…UNITEの、B’zとGLAYの共演についての感想と考察を語っていきたい。




まず第一に、B’zの対バン相手がMr.ChildrenとGLAYだった事……この組み合わせが余りにも完璧だった。GLAYのTAKUROさんは「#01という事は#02を期待していいんですね?」なんてMCをしていたし、実際に#02がある事は期待もしたい。ただ、#02をやろうが#03をやろうが、このミスチルとGLAYという組み合わせを超える組み合わせは存在しないだろう。
勿論、ミスチルとGLAYレベルの格を持つアーティストなんて限られている…というのも理由としてらある。しかしそれだけの理由ならば、例えばB’zの先輩にまで出演の幅を広げたり、或いはこれから一気に格を上げてくる若手バンドだっているだろうし、情勢が落ち着けば海外の大物アーティストを招くという手段だってある。それでも、だとしても…今回の組み合わせを超えられるキャスティングは今後出来ないと思う。それは格やバンドとしてのステータスではなく、ミスチルとGLAYのキャラクター、それぞれのB’zとの関係性、そしてそこに至るまでのストーリーが理由である。

このイベントが、この組み合わせが特別たる所以は、ミスチルがB’zの「好敵手(ライバル)」としての頂点であり、GLAYがB’zの「追随者(フォロワー)」としての頂点である事だった。


AKB48を別枠として考えれば、ここ20〜30年のJ-POPのセールスランキングはB’zとミスチルの2トップ状態が続いていた。勿論、単年で彼等を追い越したグループはいる(例えばGLAYもそのうちの一つである)。だが、トータルで見た時にこの2組は常に図抜けていた。TV局が局の総力を挙げてドラマや映画を作る時、その主題歌をこの2組のどちらかに委ねたくなる気持ちはよくわかる。

しかし、セールスや日本国内への影響力だけでは「好敵手」とは言えない。この2組が好敵手たる理由は、そのセールス的な理由を踏まえた上で音楽性がまるで真逆なのだ。私は音楽の専門家ではないのでこの2組の音楽性の違いを理論的に説明する事は出来ないが、逆に言えば素人の耳でもそれはわかる…という事。もし仮に、彼らの音楽性が近かったらもっと単純な「B’z vs Mr.Children」的な構図でしかなかっただろう。この2組のスタイルが真逆だったからこそ、B’zとミスチルは日本音楽界の二代巨頭だったし、好敵手と呼ぶべき構図が出来たんだと思う。

それゆえに、B’zとミスチルが対バンをするという事、そしてお互いの曲をコラボするという事は日本音楽史における薩長同盟ばりのインパクトがあったのだ。…いや、別にB’zとミスチルが仲悪かったとか険悪だったとかそういう話では一切無いんだけれども(むしろ今年の春の対談をきっかけにめちゃくちゃ意気投合したらしいし)、色々な記事を見ても、B’zとミスチルの個人的な接点はおそらく過去に無かっただろうし、このご時世という敵を前に手を組むような構図はには歴史としてのインパクトと意味があった。


じゃあ一方、「追随者」の立場のGLAYの場合はどうだったのか。ミスチルとの対バンが「J-POPの歴史」としての一つの到達点なのだとしたら、GLAYの場合は「GLAYというバンドを主人公にした壮大なドラマ」としての一つの到達点だったと思う。そしてそれもまた、日本音楽史の歴史の血脈とも言える。

GLAYが函館で結成されたのは1988年。そう、B’zがデビューした、その年である。その後、B’zが「BAD COMMUNICATION」「LADY NAVIGATION」「ZERO」といったヒットを世に放ち、国民的アーティストの座を手にかけた頃、GLAYは上京したてで成功するか失敗するかさえも見えないところにいた。
TAKUROさんは当時、アルバイト中に有線か
流れてきた「ALONE」をきっかけにB’zに触れ、興味を持った。お世辞にもバンド活動は上手く事が運んでいた訳ではない状況で「MOTEL」という曲に励まされ、何かの参考にしてほしいという思いでTERUさんを半強制的にB’zの武道館ライブに連行した事もあるという。ミスチルがB’zとは違う道を歩んでいたのに対して、GLAYはB’zの背中に憧れを抱いていた。敢えて対決的な視点で言えば、ミスチルにとってのB’zが競り勝つべき存在だったのに対し、GLAYにとってのB’zは追い抜くべき存在だった。それを踏まえた上でB’zのセットリストを改めて見ると、ミスチル編とGLAY編でセトリをただ単に総替えした……という訳では無いんだろうと感じる。


そんな中で、TAKUROさんが特に印象に残ったというB’zの楽曲が「孤独のRunaway」だった。
今から約30年前、この曲の、特に歌詞に感銘を受けたTAKUROさんは、特に印象に残っていた「愛を殴ってみよう 義理を蹴飛ばしてみよう」という歌詞を、ほぼ丸々自分達の曲の歌詞に引用するという暴挙に出る。この歌詞を引用した曲こそ、後にGLAYのライブに於ける最重要曲とも言える「彼女の"modern…"」である。

当時のGLAYはアマチュアであり、ブレイクどころかデビューする未来すら簡単に想像できるような立場では無かった。そんなバンドがX JAPANのYOSHIKIさんとhideさんにスカウトされる形でデビューを果たし、いつしかB’zに勝負を挑めるような立場になった。そしてTAKUROさんはB’zのギタリストである松本さんとプライベートな関わりを持つようにもなり、2011年には遂に「愛を殴ってみよう〜」の歌詞を書いた稲葉さんに対してこの事を打ち明け、稲葉さんからも快く実質的な公認をもらったという。

B’zに憧れたアマチュアバンドが、自分達も憧れられる立場になり、そしてB’zと対バンなんか出来た時点でもドラマは十分に成立する。だが、ここから先が推測に過ぎないとしても、このライブで迎えた一つの到達点はあまりにも美し過ぎた。重要なのは、歌詞を引用したエピソードを既に稲葉さんは知っている、という事である。

ミスチル編でもGLAY編でも、コラボ曲は相手側の希望制で楽曲が決まったらしい。そんな中で、B’zがGLAYとのコラボ曲として指定したのは他でも無い「彼女の"modern…"」だった。
単にGLAYのライブで一番盛り上がる曲だから、という理由かもしれないし、ただ単に気に入った楽曲だったから、というだけかもしれない。だが、B’zとGLAYの間には既に人間的な関係性も構築されている事を思うと………稲葉さんのあまりに美しい心遣いが想像できてしまう。稲葉さんがTAKUROさんと二人で向き合った状態で「愛を殴って夢を蹴る」と歌い上げたあの瞬間は果たして偶然だったのだろうか。仮に本当にただの偶然だったとしても、TAKUROさんからすればあそこに一つの到達点を感じたのは自然な事だと思う。偉大なる2組のバンドが、J-POPの歴史の中で確実にリンクした瞬間だった。そしてその後、B’zは自分達のパートで「孤独のRunaway」をセットリストに組み込んだのも大きな事実である。
自分がGLAYファンだからそう感じているだけなのかもしれないが、30年にも及ぶここまで美しいストーリーなんて、後にも先にも無いんじゃないか。横浜アリーナで演奏された「彼女の"modern…"」は、日本音楽史の中で最も美しい瞬間の一つだったのでは無いだろうか。大袈裟ではなく、本気でそう思っている。


改めていうが、UNITE #02があったとしても、ミスチルとGLAY以上のキャスティングをする事は難しいというか、不可能だと思う。格やステータスだけなら分からないが、B’zとミスチル、B’zとGLAYのキャラクターやストーリーを踏まえると、この対バンは単なるビッグアーティストの共演に留まるようなイベントでは無かった。
上で書いたように、このライブそのものがコロナ禍を背景とした時代が生んだ奇跡のようなライブなのだとしたら、彼らのストーリーと歴史は時代に呼ばれた奇跡だったように思う。

このライブを現地で見る幸運に恵まれた人達に、心からの嫉妬と羨望を送りたい。


(面白かったら是非サポートしてください)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?