![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/166386196/rectangle_large_type_2_6aba58441e8d50c11cc241796cff53c8.jpg?width=1200)
#200 古都の至宝、紫の希望〜さらば宮吉拓実…ありがとう、またいつか〜
サッカーに限らずスポーツを現地に行くと、時折「この光景絶対に一生忘れないだろうな…」と思う瞬間に出会うことがある。
優勝/残留のかかった試合やカップ戦決勝であればともかく、通常のリーグ戦でそういう瞬間、そういう場面に出会う機会なんて狙って立ち会えるものではなく、毎試合観戦に訪れるような人にとっては稀に訪れる奇跡のようなもので、ある意味ではそういう瞬間を求めてスタジアムへと足を運ぶのかもしれない。
私にとってもそういう感情を……その場所、その席で「この瞬間を絶対に忘れない」と心の髄に刻んだ瞬間はいくつかある。
2008年9月21日、西京極陸上競技場で見た景色だった。当時は小学校5年生である。日中は所属していたサッカークラブがなかなかのハードスケジュールだったので、基本的に観戦できる試合はナイターに限られていた。
対戦カードは京都サンガFC vs ガンバ大阪。Noteやブログ、Xを継続的に読んでくださっている方は既にご存知だろうが、私がサンガとガンバの2クラブを応援していたのはサッカーを見始めた小学校2年生の時から変わらない。当時から自分にとっての夢のカードだ。サンガ視点では割りかし良いペースで勝点を詰めていたのでこのまま一気に残留を決めてしまいたい。一方、ガンバ視点では直前のACL準々決勝での勝利で長い未勝利期間からようやく解放された後という事もあり、ここでリーグでも未勝利を打ち止める事で挽回、そしてその先の準決勝に繋げていきたい。あの時から巣食う幸せなジレンマは変わらず、どちらにも肩入れする理由を抱かせていた。
試合は前半のうちに1-2となり、アウェイのガンバが1点リードで後半が進む。ラスト20分、当時の加藤久監督が1点を追う為に切った交代策は10番を背負うフェルナンジーニョを下げ、まだ16歳になったばかりの高校生をピッチに送り込む事。確かにサンガアカデミーに超有望株がいる…そんな話は伝わっていたし、実際に15歳の時点でナビスコ杯のベンチ入りは果たしている。でも1点を追う場面で、柳沢敦に次ぐエース格の10番ブラジル人を下げてまで…?それはさすがにギャンブルが過ぎないか…?当時の自分が「ギャンブル」という言葉の用法を正しく理解していたかは覚えていないが、今の感覚で言うところのそういう思考が頭を張り巡らせたことは記憶している。
その退団が予想外だったか?と聞かれれば、それに対する答えは半々…と言ったところだろうか。
宮吉の契約形態はわからないが、ここ2年の出場試合数はカップ戦を含めても13試合。得点も今季第13節福岡戦で1点を取ったのみ。数字を見れば契約満了水準と言われても仕方のないところはある。
ましてや2024年のサンガのFW陣は原大智、豊川雄太、マルコ・トゥーリオ、平賀大空が主力としてプレーし、途中からはラファエル・エリアス、ムリロ・コスタも加入。若手枠には安齋悠人や中野瑠馬がおり、レンタルとして山田楓喜と木村勇大もキープしている。木村はレンタル先に完全移籍するという報道が出ていたし、エリアスの交渉がスムーズに進むかどうかは定かではなく、それ以外にも退団する選手は出てくるかもしれないが、いずれにせよ現時点で人数としては飽和状態なのだ。嫌な言い方をすれば…サッカークラブとは、既存の選手を追い越し、追い出すことで回り続ける職場である。その連鎖の原則に従えば、既存の選手に対して正しい追い出し方ができた…と表現する事もできるだろう。宮吉を追い出せるくらいのクラブになったと考えれば、それはそれで喜ばしい成長だと呼ぶ事も出来る。いわばこれは正しい順番で起こった出来事なのだから……。サッカークラブの自然の摂理に則った結論と捉えると、それは必ずしも予想外の退団ではなかった。
そう、理屈としてはわかる。理屈としては理解できる。自然な事だとも思っている。
ただ、感情は理屈で割り切れるものではない。
「理屈を超越した特別な選手」「存在にこそ意味がある選手」…そう思える選手はクラブの歴史の中で稀に出現し、それはいわゆるクラブレジェンドとも一線を画す価値がある。
いつだって宮吉拓実は京都サンガにとって、そして京都サンガを愛する者にとっての至宝であり、希望だった。怪我等の理由もあって当初の期待ほど順風満帆に運んだキャリアではなかったし、別のクラブでプレーしていた時期もあったが、宮吉がこのクラブの為にしてきた献身、このクラブに見せてきた背中は数字では表せない意味があり、何より常に宮吉拓実という存在そのものがクラブにとって拠り所のようでさえあった。誰もがその存在の重要さ、尊さを言葉よりも肌で感じていた。それはサンガの選手達…特にユース育ちの選手からすれば尚更だとも思う。
だからこそ宮吉が途中からピッチに入ってきた時のスタジアムの空気には特別なものがあったし、宮吉が決めるゴールには他の誰のゴールとも違う心の昂りを覚えた。選手の良さを語る時には理屈が必要になるが、特別な選手を称える時に理屈なんて必要ない。愛には言葉さえも必要ない。宮吉拓実とはサンガファンに、クラブを応援しているとそういう存在に出会える瞬間がやってくることを教えてくれた存在だった。だから誰もがその男の事を「京都の至宝」と呼んだのだろう。宮吉と共に新スタジアムの完成を迎えることができて、そして宮吉と共にJ1に戻ることができて本当に良かったと思うと同時に、叶う事ならば宮吉とサンガの歴史に一つでも星が付いてほしかった。それができるチャンスはいくつかあっただけに。
良い選手はいくらでもいる。優秀な選手もいくらでもいる。だが特別な選手はそう多くない。特別な選手とは実力のみならず、その軌跡にどんなストーリーがあるかだとか、その存在の意味が帯びて初めてそういう存在となる。そういう選手がクラブに居た、クラブのユースから出てきた…そんな季節と事実は京都サンガFCにとって尊い事だった。
日常はいつか過去に変わり、思い出となる。宮吉拓実というプレーヤーとサンガの物語に付いた区切りは記憶となり、いつの日か歴史となる。このクラブが特別な選手と共に歩んだ特別な時間は永遠に色褪せない。クラブの判断を否定はしないが、同時にクラブにはその価値を決して軽視してほしくはない。宮吉が背負ってきた13番は元々、13番を背負って活躍した柳沢敦から多くのことを学んだ宮吉が、柳沢の退団に伴い自ら志願して受け継いだ番号だ。そういうところから伝統は紡ぐものであり、過去の賢者達が紡いだ歴史はそういうところに宿る。奇しくも宮吉と同じプラチナ世代で、その旗頭とも称される宇佐美貴史がガンバ大阪で背番号7を受け継いだ時、彼は7番を継承する理由を「誰でもつけられる番号にはしたくなかった」「サッカーが巧いとか、実力があるとか、キャリアがあるとか、ってだけじゃなく、クラブへの想いが強いとか、サポーターにも信頼されているとか、『いろんなドレスコードが必要だよ』というイメージを作りたい」と語っていた。柳沢敦というクラブに大きな影響を与えた選手から、その影響を受けた一人で宮吉が並々ならぬ思いで受け継ぎ、そして象徴的な番号に育ててみせた京都のNo.13が、そういう番号としてこれからの歴史に受け継がれていってくれたらいいな…と思っている。宮吉の後、久保裕也や福岡慎平が受け継ぎ、今は平賀大空に託されたユース育ちの若手ホープが31番の系譜を継ぐ流れも続けていってほしい。
2008年9月21日、西京極陸上競技場。
1点を追う72分に登場した若武者が見せた20分間は、まさしく伝説と呼ぶに相応しい20分間だった。
空は雨模様。屋根なんてあるはずもない西京極のスタジアムで、遮るものなく降り注ぐ雨に打たれ、星なんて見えるはずもないほどに雲がかかった暗がりの空の下。ピッチを眩く彩ったあの姿にスタジアムに集ったサンガファンはその光景を記憶に刻み、夢より鮮やかな未来を描いた。あの瞬間ばかりはもう、極論で言えばどっちが勝つのかさえもどうでも良くなるほど特別な時間だった。「この瞬間を一生忘れない」と心に刻んで誓うような……サッカーというスポーツを見ていると時折、こうした特別な瞬間に立ち会える奇跡がある。そして一つのクラブを追いかけ続けていると、そうした特別な選手との軌跡を辿る幸せに恵まれる。
夢、希望、感動、興奮、熱狂……その全てを数字よりも大きなものでサンガファンの心に刻んでくれた男、それが古都の至宝・宮吉拓実である。
本当にありがとうございました。次の場所でもそのキャリアが幸せであるように、そしてまたいつか、再会の時が訪れることを。