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#154 宇佐美貴史 背番号7



もし仮にクリスティアーノ・ロナウドがガンバに来たとしても、おいそれとその背番号を差し出す事には少なからず憚る気持ちが生まれたように思う。
背番号は時としてそれだけの重みを持つ。そのクラブが辿ってきた歴史も、そのクラブが紡いできた文脈も、その全てを一身に背負うことになる。同時に、好きなクラブにそれだけの意味合いを持つ背番号がある事は、胸を張って幸せなことだと呼んでいい。



空席になっている7番を継承すべきものにするのか、或いは永久欠番に近い扱いとするのか。
何か締め切りのようなものがあった訳ではないが、ガンバは決断を迫られる時期は近付いていた。

例えばガンバでは既に背番号5が特別視されるべき背番号として認識されている。この番号は宮本恒靖を伝統の始まりとし、それをシジクレイ→山口智→丹羽大輝→三浦弦太と繋いできた。ガンバが5番を「継承するもの」として捉えられているのは、宮本が退団した翌年にはシジクレイが5番を背負っていた事が大きい。それゆえに、ガンバにとってのNo.5は「DFリーダーが背負う番号」として受け継がれ始めた。
おそらく今後は背番号10も似た意味を持ってくるだろう。二川孝広が象徴化した背番号は、二川が退団した翌年に倉田秋が強く志願して受け継いだ。この2人はガンバユース出身かつ大阪府高槻市出身という共通のルールを持つ。さすがに高槻まで揃える事は困難だろうが、ガンバユース出身のクラッキがこの番号を継承していくんじゃないかという予想はしている。

一方、7番を象徴化した遠藤保仁は、誰もが疑う事のないクラブ史上最高の選手であり、象徴的な7番は彼こそが唯一だった。逆に言えば、背番号7をこれ以上空き番号とするならば、それは事実上の永久欠番的な意味を持つ事になっただろうし、正直に言えばそうするだろうと予想していた。ガンバ側も「遠藤が引退したタイミングで永久欠番とする」と考えていた可能性はあると思う(これは推測です)。しかし、永久欠番を設定する意思が無かったとして、空き番号の時間が長くなれば長くなるほど背番号7は伝統ではなく固有名詞になる。そうなれば5番のように他の選手が着け、このクラブの伝統として受け継がれていく事は難しくなる。

無論、遠藤保仁は7番を永久化する事、固有名詞と化する事に言うまでもなく値する。もし仮にこのクラブが背番号7を永久欠番とすると決意したとして、その判断に異議を唱える者はそう多くなかったと思うし、なんならむしろ、私個人としてはそれを望んですらいた。かつて7番を背中に掲げた男はそれに十二分に値するほどの選手だった。その選手が来る前と来た後のガンバ大阪の歴史を振り返れば、背番号7を"英雄"と呼ぶことさえも過小評価なんじゃないかと思えるほどである。「ヤット以前」「ヤット以後」として歴史を語ることはもはや比喩でもなんでもない。
Jリーグが開幕して30年。その歴史の中で、ガンバ大阪にとっては「永久欠番」という言葉を初めてリアリティを持って考えさせてくれた選手が遠藤保仁だった。



だからこそ、じゃあこの番号を永久欠番にはしないとしたところで誰でも背負えるような番号として扱ってほしくはない。サッカークラブにとって背番号は単なる記号ではないのだ。
だからこそ冒頭で書いたように、スーパースターが来たとておいそれと7番を差し出す訳にはいかない。その選手の実力・実績・スター性だけでなく、背番号7を継承させるにはストーリーとしての必然性は必要不可欠だった。実力や実績だけが構成要素ではない以上、それに値するような選手なんて普通はいない。


だが一人だけ……背番号7を継げる人間が、この世界にただ一人だけ存在した。




宇佐美貴史という人間はガンバのエースである前に、一人のガンバサポーターであった過去を持っている。
ガンバサポーターの両親の元に産まれた貴史少年は幼い頃からガンバ大阪を見続けていた。例えば、今なお様々なところで映像が流される1997年のパトリック・エムボマの伝説的なゴールを、彼はゴール裏から生で見ていたと云う。宇佐美自身が都市伝説化するほどの圧倒的なパフォーマンスで長岡京SSからジュニアユースへ、そしてユースへと駆け上がっていくその過程に合わせるかのように強くなっていくガンバの中心にはいつも遠藤保仁がいた。
私を始め、多くのファンやサポーターにとって、遠藤保仁はずっと好きなクラブの最も崇拝すべき選手だったが、それ以上の視線を持つ事も出来ない。その点、宇佐美にとっての遠藤はファンやサポーターと同じく崇拝の対象であり、少年期やユース期の憧れであり、同僚であり先輩であり、そして自分にパスを出してくれるパートナーでもあった。宇佐美ほど「ガンバの申し子」という言葉が似合う選手はいない。その点で言えば遠藤すら凌ぐだろう。そしてそれは、この世界で最も遠藤保仁の背中を様々な角度で追ってきた選手なのだ。


「まずは(7番を)誰にも譲りたくないと思った」

「ヤットさんがこれまでやってきた事をより意味のあるものにする為に、7番をより大きくする為に自分が付けなくちゃいけない」

「自分が付ける事で、子供たちが『ガンバでプレーする』だけじゃなく『ガンバの7番をつけてプレーする』と思ってもらえるようなきっかけを作れるんじゃないかと思った」(上記動画の30分過ぎから)



痺れた。
素直に痺れた。
憧れとして、目標として、選手として、そして象徴として…あらゆる立場でガンバ大阪と共に人生を歩んだ宇佐美貴史という人間の、過去・現在・未来の全てが去来しているような、そんな言葉だった。
この背番号の重みを知り、この背番号を伝統にする事で永遠にする……過去を受け取り、未来へ渡す……憧れの番号を背負う決意は、憧れの番号を背負う事だけを目的としていない。やっぱり、今の時代にガンバ大阪の背番号7を継げる選手は世界に一人しか存在しない。そのただ一人に、正しく王位は継承された。そしてその決意を自ら示した宇佐美に震えが止まらなかった。
「献身」……かつて宇佐美貴史という選手を、献身性から最も遠いところにいる選手と評した者が多くいた。だが、今も同じ事を語る者は近年のガンバと宇佐美を追って見てはいないだろう。それは断言できる。近年の宇佐美は、プレーも生き様もまさに献身そのものとしか言いようがない。こういう選手が好きなクラブにいる事が、幸運という言葉すら小さく感じてしまうほどに代え難い幸運である事を、改めて心の底から実感している。



そんな宇佐美の言葉を、彼もまたこのクラブの歴史を紡ぎ上げた偉人の一人で、そして17歳の宇佐美を見ていた橋本英郎のまるで親戚の叔父さんのような眼差しもまた、サッカーという競技で定点観測する人間ドラマを見ているようだった。

人だろうが組織だろうが、この世の概念の全てに歴史は存在する。
遠藤保仁にとって、結果的にガンバでのラストゲームとなった試合……1-1で迎えた終了間際、彼のガンバでのラストパスは小野瀬康介を介し、最後は宇佐美が決めた。
上でも書いたが、背番号7を背負う為にはストーリーがいる。だが物語と違って、これは現実だ。この物語を句点ではなく、読点を打ち続ける……"背番号7"に託されたのは、終わらない歴史の一部である。


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