サドラーズ・ウェルズ劇場~英国における劇場の歴史とともに

「いちばん大事なことはな、己れに忠実なれ、この一事を守れば、あとは夜が日につづくごとく、万事自然に流れだし、他人にたいしても、いやでも忠実にならざるをえなくなる」シェイクスピア『ハムレット』

どんな批判も気にすることなく、己の信念に生きること、そこから自然に道が開けていくことを、人の心に寄り添う天才である劇作家シェイクスピアは今も本のなかから、私たちに語りかける。

いや、その本のなかの言葉を、鮮明に、生き生きとした姿となり語りかけてくれる場所がある。舞台である。
「演劇王国」として揺るぎない地位を築いているイギリスで、野田秀樹さんが、舞台「正三角関係」をロンドンで公演する。

その11月に向けて、まずは公演される劇場の詳細を知れたらと思ったのと、
調べていくうちに、英国の劇場の歴史だけでも相当なものであることがわかり、英国の演劇史と劇場の歩いてきた道のりを学んでみたい。

もちろん、公演される劇場のことのみ知りたいという人の為に、二部構成とした。はじめにサドラーズ・ウェルズ劇場について調べられる範囲ですべて調べて、記している。参考になれば。後半は、演劇史と英国の劇場の歴史を簡単にまとめることとした。

冒頭のシェイクスピアの言葉は、これまでもどんなに過酷であっても、舞台の本場・英国に挑戦してきた野田さんの信念の強さへの、私の賛辞を込めた言葉として引用したことをまず記しておきたい。

<サドラーズ・ウェルズ劇場について>

サドラーズ・ウェルズ劇場、日本語で簡単に直訳すると「サドラーさんの井戸」という意味の劇場。さて、どんな背景でこのような名前となり、どんな歴史を歩んできた劇場なのか、簡単に説明したい。

『ロンドンの劇場文化~英国近代演劇史』英米文学会編・株式会社朝日出版社2015年
p42のコラムにその劇場の詳細はあった(補足を加えながら、引用する)。

「サドラーズ・ウェルズ劇場はダンスやミュージカルを上演する個性的な劇場で、歌舞伎の上演も行われた歴史を有す。」

(補足。ネット情報では、松竹大歌舞伎ロンドン公演として、2010年に一週間弱、当劇場で上演されている)

「劇場街ウエストエンドから離れたロンドン北部のイズリントン、地下鉄エンジェル駅のほど近くに位置する。
モダンな外観と光の射しこむ明るいロビーが印象的なサドラーズ・ウェルズ劇場の起源は古く、1683年に建築された木造の演芸場にさかのぼる。
劇場名にある<wells>が示すように、当初は湧泉を利用した娯楽施設であった。」
(補足、このwells(日本語では井戸の意)について。
1683年に企業家のリチャード・サドラーが見つけた、薬効のある井戸のほとりに建てられたミュージック・ハウスが起源である。現在の名前もリチャード・サドラーと、この井戸に由来している。との記述あり)



「1833年に行われた大規模な改修後は、ブルレッタ(喜歌劇)、音楽劇、パントマイムなどの娯楽を提供する大衆劇場として親しまれた。」

「周辺の環境に恵まれなかった郊外の劇場が演劇史に名を残すようになったのは、実力派俳優のサミュエル・フェルプスの功績が大きい。

1844年、フェルプスはサドラーズ・ウェルズ劇場のアクター・マネージャーに就任し、果敢にもシェイクスピアの原作を尊重した上演を行ったのである。
開場公演の『マクベス』上演の際、混みあった劇場内にビールを持ち込んだ観客や半額チケットを待ちうける観客で大混乱が起こるほど土地柄が悪く、芝居を静かに鑑賞する観客に恵まれない悪条件での上演であった。

しかし、劇場は観客のマナー改善に努め、演目にも工夫を凝らし、娯楽性の高いメロドラマとともにシェイクスピア作品やエリザベス朝の劇を演目に加えて上演作品の質の向上に努めた。
この地道な努力が実って、目の肥えた観客層が訪れるようになり、劇場のみならず周辺地域までも改善されたのである。」

「サドラーズ・ウェルズ劇場の最大の功績は、従来の大幅なカット版のシェイクスピア上演の慣行に逆らって原作上演への道を開拓したことと、
シェイクスピア劇の34作品を上演する快挙を達成してシェイクスピア作品の全体像を明示した2点にあろう。」

「1862年にフェルプスは劇場を辞したが、フェルプスの理念は、アーヴィングをはじめ多くのアクター・マネージャーに継承された。
フェルプスが劇場に植えつけた革新を重視するDNAは、現在も健在である。」

『イギリス劇場文化』からの引用は以上。この年代以降の劇場の資料がなかったため、ここからは補足的にネット調べ。

~1927年、オールド・ヴィック・シアターのリリアン・ベイリスにより再建され、1990年にバーミンガムに移転するまで、サドラーズ・ウェルズ・バレエ団(現在はバーミンガム・ロイアル・バレエ団)の本拠地であった。

オールド・ヴィック劇場とサドラーズ・ウェルズ劇場の両方で公演を行っていたため、ヴィック・ウェルズとしても知られている。

現在の芸術監督兼CEOはアリステア・スポルディング(Alistair Spalding)
Sadler's Wells is Danceを標語に、英国におけるダンスの中心としてその位置を築く方針を立てており(中略)、新たな作品の共同制作を行っている他、
シディ・ラルビ・シェルカウイの振付、中国少林寺の武僧が出席して話題になったSutraなど、この劇場から発信され、世界ツアーを行っているヒット作も生まれている。)

劇場は、戦火などもあり、改修が重ねられ、現在は5代目とのこと。

そして劇場の公式インスタ等からは、現在、東館が建てられ、そこはコンテンポラリー、バレエ、ヒップホップなどあらゆるダンス表現を行う場所として機能しているようである。公式動画で観るダンス表現の数々は、見たこともない世界観で人間が何かを表現しようとする情熱が沸騰しているような熱量ある世界であった。機会があればぜひ!

また別の書物を探したところ、サドラーズ・ウェルズ劇場についてこのような説明がされていたことも記録しておきたい。
『英国 演劇・ミュージカルへの招待~ウエスト・エンド物語
』壞晴彦(じょうはるひこ)&ワークショップMOM編著1993年発刊 p44

「サドラーズ・ウェルズ劇場
ロンドンで3つ目のオペラハウス。シティ北部にある伝統ある劇場。
1683年にミュージック・ホールとして始められたのが、この劇場のそもそもの起こり。
ロンドン市内に現存する劇場としては一番古い。

バラエティ・ショーを中心に、一時はシェイクスピアなども上演していたが、地の利も悪く、さほど目立った劇場でもなかった。

これに目をつけたのが、『オールド・ヴィック劇場』の経営者リリアン・ベイリス。彼女はオールド・ヴィック劇場で芝居を、サドラーズ劇場でオペラとバレエをと夢をふくらませたが、バレエはコヴェント・ガーデンのロイアル・オペラ・ハウスに、
オペラは〝サドラーズ・オペラ”となり、やがてコリシウムを本拠地とするイングリッシュ・オペラにそれぞれ吸収されていった。

現在は、オペラやバレエ、コンサートの他に、子ども向けの劇も上演。
簡素で親しみやすい劇場として、ロンドンっ子に愛され続けている。
客席数1499席。」

サドラーズ・ウェルズ劇場と、オールド・ヴィック劇場との関係も少し記しておきたい。

「オールド・ヴィック劇場は、芸術的志向のみならず、社会改良運動にかかわる強い理念と意志が、その繁栄を導いてきた。ヴィック内で俳優のためのバレエ教室を開き、養成、出演の機会を広げた。
バレエといえば、本格的なダンサーとしてキャリアを目指すには欧州に渡る必要があった当時、英国に根差したバレエ団を育成する前身組織として、ヴィック・ウェルズ・バレエ団が結成されたことは画期的な出来事だった。これが後に、英国ロイアル・バレエ団に発展していく布石となる。

オールド・ヴィック劇場では、オペラをイタリア語などの言語ではなく、庶民にわかりやす英語で上演し、安価で提供していた。
1920年代、演劇とオペラ双方の人気の高まりにより、一つの劇場では収まりきらなくなり、拡張路線として、第二の劇場サドラーズ・ウェルズを取得して、1931年改装オープンし、やがて演劇はオールド・ヴィック劇場に特化し、
バレエとオペラはサドラーズ・ウェルズ劇場でという住み分けが定着していく。」『ヨーロッパ演劇の変貌』山内登美雄編・1994年 p189~

つまりは、オールド・ヴィック劇場と、今回のサドラーズ・ウェルズ劇場とは関係が深く、なぜサドラーズ・ウェルズ劇場のSNSには、ダンスのような要素が強いかが、ここからわかる。
戦時中の1931年頃から、バレエとオペラを主に担ってきたのである。

なお、このオールド・ヴィック劇場のこの革新的な動きをつくった、劇場支配人エマ・コンスと、リリアン・ベイリスは、その驚くべきバイタリティーとパイオニア精神で、英国的なバレエやオペラの発展に寄与し、
度重なる経営危機にも、大戦にもひるむことなく、むしろ危機から好機を生み出し、生涯独身を貫きながら60年間もヴィック劇場を守り抜き、

その間には英国演劇界では、数十もの劇場が、後世に何も残せず、永続的に残るものの基礎を作りえないまま消えていったなかで、

彼らは芸術への深い信頼と、市井に生きる人々の生活向上をひたすら願い、「マイ・ピープル」と呼び母親のように親身に寄り添っていく献身的な慈愛の精神で尽くし抜き、2011年英国政府がオールド・ヴィック劇場に、Big Society賞を授与している。

なるほど、だから、インスタでもそのような精神が息づくような、ダンスであり、これからの人たちを育てる気概に溢れる動画があったのだとわかった。
劇場を守ってきた人たち、関わってきたひとたちのスピリットが今も大切にされているのだ。

なお、このnoteの最後のあたりに詳細があるが(⑩として書かれている)、このサドラーズ・ウェルズ劇場のある地域はRSC(ロイアル・シェイクスピア・カンパニー)という国立劇場を有する大きなセンターがあったり、大英博物館などなだたる観光名所もある、「シティ City」と呼ばれる地域にある。

イギリスで現存する一番古い劇場ということで、サドラーズ・ウェルズ劇場が誕生した1683年といえば、日本は江戸時代。
1603年の関ケ原より80年経、5代将軍・徳川綱吉の治世で、1685年には有名な生類憐みの令が発令されている。

劇場が建った1683年、日本は9月に日光周辺でM6.8の地震が起きている。
地震や富士山の噴火、火災など自然災害がありながらも、松尾芭蕉が奥の細道の旅をはじめていたり、江戸には次々と橋が完成し、歌舞伎の演目も様々上映されたり、松坂屋の開店など日本は江戸時代真っただ中のころである。

歌舞伎の演目が盛んな頃にイギリスで生まれたこの劇場で、「正三角関係」が上映されるというのも、それぞれ演劇を愛してきた国の歴史と歴史が交差するようで面白い。

この時代は、海外では次々と新しい発見、「万有引力の法則」の発見や新たな数式が発見され、いよいよ化学の時代が到来しようとしていた。

ここからは、劇場の起源から、イギリスにおける「劇場」の誕生と、
イギリスで演劇・劇場は数々の衰退や繁栄を繰り返しながらも、今なおどれほど長く愛されてきているかを、簡単にまとめたい。

歴史を含めた、大局からみて初めてその存在の意味や、深さがわかると思うので、ここからは、かなり大きな範囲から学んで、劇場の成り立ちを振り返って、最終的に、このサドラーズ・ウェルズ劇場についての考察をまとめたい。

<劇場の始まり>
・劇場は太古の昔から、ヨーロッパ、インド、東アジアに存在しており、もともとは娯楽を提供する場ではなく、その発想は後に起こったもので、宗教的なことを起源とする。

・世界中で、人々は神を崇めて踊っており、演劇は舞踊から発展した。
例)紀元前1550年頃古代エジプト、神を称え、タンバリンを持って踊る絵
  紀元前550年頃古代ギリシャ、ポセイドン神に捧げる動物踊りの絵
  10世紀インド、ヒンズー教の神を崇める宗教舞踊
  アメリカン・インディアン、スー族の医大なる熊の霊を呼び出す踊り
  中央アフリカ、ツチ族が悪霊退治のためにライオン・ダンスを踊る

・本来、劇場とは、聖職者や信者が、聖なる歌や踊り、あるいは神々の物語を演じて見せる寺院や神殿のことだった。
演じる者も見る者も、この公演を宗教上の儀式と考えていた。

・ヨーロッパの劇場は、古代ギリシャ人とともに始まる。
紀元前500年以前、野外にディオニュソス神崇拝の踊りを見物するための座席を設ける。階段状になった石の観覧席、演技する空間、着替えの場所などを備えた「野外劇場」が登場。

・ローマではギリシャの劇場を真似して作られ、紀元前27年頃には、人々は劇場に宗教ではなく、「娯楽」を求めるようになっていった。

・しかし娯楽化した劇場が風紀を乱したため、西暦410年~ローマ侵略とともに1000年の間、ヨーロッパには公衆劇場はなくなった。

<中世の劇場>
・初期キリスト教徒は、粗暴で愚かな娯楽を与えて人心を堕落させたとして、劇場を非難。しかし10世紀頃には、聖職者がキリストの復活を告げる場面を演じるようになるなど、教会が「演じることの効用」に気付き始めてきていた。字が読めない人たちへの教育法でもあった。

・14世紀には聖書の天地創造から、キリストの復活までを物語る連続劇も完成し、大勢の群衆も集まってくるようになったので、教会の外に劇場を作って上演するようになる。

・一方で、旅回り役者や、大道芸人、操り人形などをする「職業芸人」たちも存在するようになったが、一般に労働と見なされないことを行って報酬を期待することを非難されたり、
キリストの教会は怠惰の罪と説いて、芸人を怠け者と考え、それをことも怠惰と教えた。
しかし、人々が喜劇や芸当、歌曲を求めるため、芸人たちを排除するために彼らには仕事の場所を与えないようにし、そのため、彼らは観客を求めてさ迷い歩くこととなる。

<15世紀・旅回り役者たち>
・15世紀の間にヨーロッパ各地で、旅回りの役者たちが集まって劇団を結成するようになる。寸劇を演じ、市場や納屋、中庭、空き地などの仮設舞台で演じられていた。

・16世紀のイングランドでは、農法の近代化によって、職と家を失った者が急増し、しかしその窮状は理解されず怠惰ととられ厳しい罰を受けており、
旅回り役者も、誰かに庇護されなければ弾圧される事態となり、
一流の劇団は、貴族を庇護者にすることで、身分を証明してもらい難を逃れていた。

・貴族の庇護者の求めに応じていつでも芝居を上演し、その成功は庇護者の名を高めることになったが、報酬はなく、生計のために巡業を続けたが、庇護者の名をつけた記章が旅先での良い待遇を保証してくれていたのである。

<劇場を建てる>
・16世紀イングランド。意欲的な劇団が、都会の熱心な観客相手に運を試そうとロンドンへ。そして芝居見物が盛んになる。

・ロンドン市当局は、芝居の上演が騒音と無秩序を引き起こし、平日は仕事から、日曜日は教会から人心を引き離すとして、上演数を制限しようとする。

・1570年代、レスター伯爵一座の座長・ジェームス・バーベッジは進取の気性に富んだ人物で、大勢の観客に芝居を見せれば利益もそれだけ増えると判断し、兄と協力して演劇専用の建物をつくる。その場所は、市当局の干渉が及ばない、ロンドンの北のはずれに劇場「ザ・シアター」を1576年を建て、大成功を収めた。

・ロンドン橋は、当時テムズ川に架かる唯一の橋で、その橋の両側、市内から少し離れた場所に、他の人たちもバーベッジの発想を真似て、
さまざまな劇場が次々と建っていく(カーテン座、スワン座、ホープ座、ローズ座、グローブ座など)

・木の枠組みは建設業者の庭で作られ、それから一度解体し、現地で再現し、大工たちが組み合わせて建て、壁に漆喰を塗ったり、屋根ふき職人が回廊に屋根をかぶせ、絢爛豪華にペンキで壁に装飾されていたという。

<役者ウィリアム・シェイクスピアの登場>
・1564年市議会議員の父のもと、裕福な家庭に生まれたが、その後、家は凋落し、高等教育をどの程度受けたのか、どのような職業についていたのか今も明らかではないが、20代、1592年頃にはロンドンへ進出し、演劇の世界へ。
上記のように、演劇が興隆し、劇場や劇団が次々と設立されていた時期で、俳優をするかたわら、脚本を書くようになり、1594年にはグローブ座の共同株主になっていた。その後の活躍は知っての通りである。
1600年から、その能力は最大限となり、『ハムレット』『マクベス』『オセロー』などを書いた。(1616年没)

<劇場主と劇団>
・バーベッジは役者であったが、他の劇場の所有主は多くは利益を見込んだ投機家で、芝居小屋の持ち主であるため、「家主」と呼ばれ、劇団に劇場を賃貸していた。
・当時劇団は、分裂したり、合併したりして劇団名が変わったりしていた。
・利益の半分を要求し、その代わり、衣装代の立て替えや、役者にお金を貸したりもしていた。
・良い劇団を自分の所にとどめるために、劇場を去るときには多額の違約金を払うという誓約を、人気役者に書かせることもあった。

<株主>
・シェイクスピアもグローブ座の株主であったが、これは、劇団の業務は一握りの主要な劇団員によって計画されており、彼らがまとまった金を出資して劇団の株を買い、劇団の利益を分け合う権利をもっていたのである。

・衣装代、劇作家の執筆料、上演許可料、巡業の旅費、役者の出演料などは、彼ら株主の出した資金からあてがわれていた。

<当時の劇場にいた人たち>
・役者は男性のみ。劇場で芝居をするという行為は、女性には非常にふさわしくないとして、女性の役はすべて少年俳優が演じた。

・劇作家は「詩人」と呼ばれていた。まじめな戯曲はすべて韻文で書かれていたため。
・楽師(サックバットや太鼓を演奏)、集金係、舞台係(清掃や小道具を運ぶ)、衣装係、台本係などがいた。

<装飾品(アパレル)>
・舞台衣装と小道具は「アパレル」と呼ばれた。観客は華々しいスペクタクルを期待し、衣装にとても期待していた。
・当時はまだ、背景などの舞台美術は発明されていなかった。
・衣装の大半は、当時の流行の服に手を加えたものであったが、真珠や絹糸を使ったものなど豪華なもので、劇団の出費の大半を占めていた。

<巡業>
・ロンドンに留まって仕事をしていたかったが、夏になると、ペストが流行するため、人ごみで伝染することは認知されていたため(病原菌がネズミとは判明されていなかった)、病人が増えてくると市当局は劇場を閉鎖。
1593年の大流行は大変なものであった。多くの役者は職を失い、巡業に出ても最低限の賃金しかなく、粗末な食事で納屋に泊まることも。巡業先の町でペストを恐れて滞在を拒否されることもあった。

<1599年グローブ座の完成>
・「ザ・シアター」を作った、老ジェームス・バーベッジは、大きく手を広げすぎたために資金難に直面、劇場があった土地も借地であったため追い出され、息子たちは苦肉の策として、クリスマス休暇の寒い時期に、密かに劇場を取り壊し、木材を持ち出して、テムズ川の南岸まで運び、その木材で新しい劇場を建て、「グローブ座」と名付けた。

・「世界広しといえども、当劇場が皆様にお見せできないものなどございません」と謳うほどに、その建物は豪華で、当時もっとも刺激的な娯楽であった。このグローブ座の資金を担ったのが、株主のシェイクスピアである。

・役者はプロットを直前まで確認し、ラッパの合図で上演の開始。
階段あり、屋根裏部屋あり(そこからロープで役者を吊り降ろす装置)、
落とし戸で舞台下にもいける。
・台本は鍵をかけなければならない、貴重な財産。成功した本は貴重で、劇団は他へ印刷されることを恐れた。

<観客>
・ロンドンで暮らすあらゆる人間が演劇を楽しんだ。(一部堅物をのぞく)
宮廷人、弁護士、兵隊、召使、船乗り、あらゆる人が同じ門から入る。
しかし女性は一人で来ることはなかった。貴婦人は男の召使をおいて来場していた。
・気に入らないとやじをとばす。気に入れば夢中で聞き入る。
「平土間席の観客が、皆同じ感情にとらわれて、その頭の「海」がうねったりさざ波立ったりしているようだ」との記録あり。
・希望の演目でないと、ベンチや瓦を投げたりする者もいた。
・リンゴ、ナッツ、ビールなどの行商人が、飲食物を売りに来たり、短気な者は早く上演しろとそのリンゴを投げたりも。切り取りスリという、人ごみのなかで財布の紐を切り取ってスリをする者も。
・旗を掲げて、その日の午後に公演があることをテムズ川の対岸の人たちに知らせたり、掲示を貼って公演の宣伝をし、
早めに来た人が席をとれた(切符も指定席もなかった)。ロンドン橋を歩いて渡ったり、船にのって対岸の劇場へ。

<王室>
・シェイクスピアの芝居は女王エリザベス一世のお気に入りで、クリスマス休暇、新年などで女王が観劇を楽しむのが慣習だった。
・この時代の国王や女王は劇場には行かず、宮殿内の大広間に臨時の劇場を作った。「宮内大臣一座」をひいきにし、一座は一年に32回公演を行っていた。
・1603年に即位したジェームズ一世は、より演劇を好み、「国王一座」と名を改めさせ、一座は名実ともに第一級の劇団になった。


~~~ここまで、古代からエイザベス一世の時代までを振りかえってみた。
演劇は当初は、風紀を乱すものとして、疎んじられ、かろうじて宗教劇の形で延命していたが、エイザベス一世の時代、王や貴族までもが演劇擁護にまわったことで、演劇を巡る厳しい情勢は多少回復していた。

しかし、芝居が「日陰者」であるという、清教徒からの厳しい目線は変わらずあり、ロンドンを支配する中産階級の市民たちは大方、清教徒であり、
不潔とみなされた芝居小屋、劇場は、当局の力の及ばない市郊外とするしか、生き残る道はなかったのである。

「ザ・シアター」をはじめ、テムズ川の南岸の草原に私設の芝居小屋が誕生したが、その盛況ぶりは相当であった。
当時のロンドンの人口は20万たらず。これに対して、芝居小屋が大入りになるとその数2万人以上。
いかに演劇が庶民の娯楽として歓迎されていたかがわかる。

シェイクスピアが株主の一人となっていたグローブ座のように、芝居小屋から、宗教劇とは違う民衆のニーズに応えた演劇が勢いよく生まれてきたのである。しかし、ここで清教徒革命が1642年に起こる。

その清教徒革命から、近代までのロンドンの劇場の変移をまとめたい。
~~~~~~

<演劇受難の時代~清教徒革命>
・1642年の清教徒革命の結果、劇場はすべて閉鎖となる。
・1660年の王政復古で上演は再開されるも、劇場には勅許制がしかれる。
・1737年には演劇検閲会が発足、上演に先立って、宮内大臣の検閲を受けることを義務づけられる。
・1843年に勅許制は廃止されたが、劇作家の自由な創作だけは許可されず、この検閲制度が廃止されたのは、1968年。
・約220年の間、検閲制がしかれていたのである。

<英国演劇界に転機をもたらしたフリンジの活躍>
・19世紀末~20世紀初頭、大英帝国がその勢力を世界各地にのばし、繁栄を謳歌するなか、オペラやオペレッタ、演劇もしだいに生活の中に浸透し、
数多くの劇作家や名優を生み出し、演劇王国・英国が誕生する。

・第二次世界大戦後、しかし、ウエストエンドもかつてほどの活気は取り戻せず、演劇はもはや、時代錯誤な娯楽とさえいわれる体たらくとなっていた。
(原因)
・演劇界にまだ検閲制があった
・古典劇の焼き直しや、ブロードウェイやパリでヒットした作品の輸入、安易なメロドマラなど、安全路線の上演で魅力に欠けていた
・戦後のテレビの人気

・ウエストエンドの商業劇場が低迷を続けるなか、地方やフリンジ(ロンドンから離れた住宅街)で、戦後の演劇界に新しい風を吹き込む。
労働者階級の人々を観客に巡業し、労働者階級からの劇作家の発掘や、台本に対する新鮮なアプローチや、アンサンブルのすばらしさで、演劇界に大きな影響を与える(アンチ商業主義の劇団「シアター・ワークショップ」などが活躍)

・戦後の英国社会の不正と、それを擁護する体制に対して投げかける鋭い怒りの声を込めた作品が上演されるようになる(「イングリッシュ・ステージ・カンパニー」などの劇団)
怒れる若者たちが、演劇界のみならず、社会のあらゆる場に登場し、戦後の英国社会に大きな波紋を与える。

・プロデューサーや俳優の為ではなく、劇作家のためにという独自の上映システムにより、新人劇作家が多く生まれ育ち、戦後演劇界のルネッサンスといわれるほどの大きな波及となっていく。


<演劇界の二大拠点、2つの国立劇団の誕生>
・フリンジの活躍に敏感に反応し、大きな飛躍を遂げた国立の劇団RSC(ロイアル・シェイクスピア・カンパニー)と、NT(ナショナル・シアター)は、第二次世界大戦後、芸術監督を地方から迎えたり、有能な若い演出家や、役者を積極的に起用するなど、伝統演劇に新しい血を導入。

・数々の大戦で中断はあったものの、「国家が文化を保護・育成する」という今日の基本的なスタンスが生まれ、国立劇場の構想が実現していく。

このように、戦後地方のフリンジから芽吹いた演劇ルネッサンスは、商業演劇界に活性化をもたらし、2つの国立劇場・劇団の誕生によって成果をあげていった。
そして演劇王国イギリスが復活したのである。

<劇場エリア紹介>
①シャフツヴェリー通り Shaftesbury Avenue
ニューヨークの商業演劇のメッカがブロードウェイなら、ロンドンの劇場街はウエスト・エンド。ロンドン市の西部、ソーホーからテムズ河畔にかけての一角に40余りの劇場が。アポロ、ピカデリー、グローブ座などがある。

②ヘイマーケット周辺 Haymaeket
高級デパート「リバティ」などロンドンきってのショッピングストリート近く。クラッシックで落ち着いた雰囲気の道に、美しさを競うように大劇場が並んでいる。プリンス・オブ・ウェイルズ、コメディなど。

③チャリング・クロス Charing Cross Road
古書や新刊の書店が立ち並ぶロンドンでも有名な書店街の近く。大劇場からこじんまりとした劇場まで、個性豊かな劇場が顔を揃える道。
フェニックス、ガリックなど。

④セント・マーティンズ界隈 St. Martins Lane
細い道が網の目のように、そこに魅力的な劇場がいくつも並ぶ。演劇関係者愛用のパブや、専門店、レッスンスタジオなども。ケンブリッジ、アンバサダーズなど。

⑤ストランド&オルドウッチ Strand & Aldwych
バッキンガム宮殿近くの、クラッシックな雰囲気の通りだが、華やかな看板を掲げた劇場が。ウエストエンドに劇場街の中心が移るまでは、ここがロンドンの演劇のメッカであった。ストランド、ダッチェスなど。

⑥ウエスト・エンド周辺 Outer West End
ウエスト・エンドの劇場密集地からは離れるが、デパートなど一代ショッピングストリート。テムズ河畔は散歩にぴったりのエリア。
ドミニオン、プレイハウスなど。

⑦チェルシー周辺 Chelesea
ロンドンでも屈指の高級住宅街。パンク発祥の地。ユニークなプロフィールをもつ劇場が多い。ロイアル・コートなど。

⑧サウス・バンク South Bank
近世初期、清教徒からの迫害を逃れた芝居小屋が建っていた。再び時代がめぐり、今は川に面して、近代的な劇場が並ぶ。ロンドンの劇場巡りで、欠かせないポイント。
NT(ナショナル・シアター)、オールド・ヴィックなど。

⑨シティ City
歴史と伝統の街ロンドンといえば、ここシティ。セントポール寺院や、大英博物館などの観光ポイントが散在。銀行や官庁が立ち並ぶどっしりとした重厚な雰囲気の街。ここに、近年、巨大なバービカン・アーツ・アンド・カンファレンスセンターが。この中にRSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)が劇場を構え、シティは演劇ファンにとっても注目の街に変身。
マーメイド、サドラーズ・ウェルズがここにある!!!

⑩オフ・ウエスト・エンド & フリンジ Off West End & Fringe
「フリンジ」はもともとは「房飾り」や「縁」という意味以外に、「過激集団」「主流から外れた集団」の意味もあり、ロンドンの中心部からはずれた住宅街などに50か所の小劇場やフリンジが散在している。

すっかり長くなってしまったが、いかにロンドンが劇場の多い場所であるかを知るために記しておいた。

今回、ただサドラーズ・ウェルズ劇場のことのみをまとめる予定であったが、そもそも、どういう背景で劇場が生まれたのか?時代背景は?その時の様子は?など、詳細知りたくなり、演劇の古代からの歴史まで引っ張り出してしまった。
しかし、そこから見えてきたのは、はるか昔から、人間が「表現する」ことを求めていたこと、その表現を楽しんできたこと。

学びながら、当時の人たちの楽しい歓声や劇場のにぎわいが聴こえてくるようだった。

「何といっても、イギリス人は、根っから芝居が好きな国民なのだ。」
「イギリスには、舞台のつくり手側の質の高さに加えて、その舞台を支え育む豊かな土壌があるようだ。」『ロンドン・ウエスト・エンド物語』p74

その言葉が、これだけの歴史を踏まえてようやく、理由がわかってきたように思う。いや、しかしまだこれも序章に過ぎない。

こんな分厚い演劇の歴史をもつ国で、野田秀樹さんたちは舞台に挑む。そんな彼らに、シェイクスピアの言葉を贈って、エールとしたい。

「王冠はわたしの心の中にある、頭の上にあるのではない。
ダイヤモンドやインドの宝石で飾ってもなければ、目に見えるものでもない。
わたしの王冠は『満足』という。
この冠を持てる王はめったにいるものではない」
『ヘンリー六世 第三部』より
ベストを尽くし全力でやり抜いたという満足、挑戦した自身への満足、そして大切な平和のためのメッセージを誰かの心に灯せたという満足で、満たされるような、大成功の舞台になりますように。



(余談)
今日、9月15日は嵐の結成記念日で、なんとしてもそれまでにこのnoteをまとめたいと頑張っていたものの、さまざまな病気で倒れる園児を大事に看病していたら自分も罹患してしまい、またも高熱。。

体調管理には物凄く気を付けてきたし、体力も自信があるほうですが、やはり17年の介護がそろそろこたえてきてるのかな、、本当に若い時から父母の介護が始まって、両立してきたのですが、今年度の担任がキツイのかな(子どもたちは可愛いですが業務量!)
こんな過酷な現場は、ニュースで問題にもなるくらい、常に人手不足。それほどの大変さ、否定はしません(笑)

でも私はただただ、子どもたちの為だけに生きてきたように思います。これは死ぬまで貫きますが、フィリピンのスラム街で本当の貧しさのなかで必死に生きるひとたちのなかでボランティア活動を経験した20歳の私が、ずっと心にいるんですよね。自分の幸せより、子どもたちであり、友達で。それがあの子たちへの、私の気持ちです。

そんな私にも凹む時はもちろんあり、ずっと嵐の音楽が私の応援歌でした。
MY BEST ARASHIという5曲選ぶという企画が発表され、ふと
We can make it!を聴いていたら、涙がこぼれてしまいました。
嵐の音楽は、20代からのすべての私の姿を、まるでカメラのフィルムのように写して残してくれているのです。それが自分の周りをゆっくり回って、見せてくれているような感覚?嵐の曲だけがもつ、不思議な時間。

いつもいつも、生活の中に、嵐の音楽はあったから、テレビはほとんど見る時間なかったけど、嵐の音楽に包まれると、あの頃の自分が応援してくれてるような気持ちになるんですよね。
嵐の5人の歌声は、親友的な存在なんです。ずっとそばにいてほしい。

高校時代の恩師から「遊びなさい!!」と再三言われてきたのに、全然あそべてない!と、このままでは怒られるな、と気付いた昨今、松本潤くんの応援だ!!とようやくあちこち、行くようになりました!(それ、遊びなの?いや、楽しいからきっと遊び!)

松本潤くんの素敵なところは、こんな企画を考えだしたり、生活のなかに楽しみを、人の心に楽しい時間を届けようとしてくれる、真摯な心根だと思っていて、そんな彼の努力に何か応援をと思ったら、結局、自分にできるのは、無駄にやってきた勉強分野なのかなー?と(笑)

嵐くんたちへの恩返しもしていきたい、それだけです。励まされてきたから、25年ありがとう!!!!!
ロンドン公演!応援しています!!

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