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女生徒(太宰治 短編小説)

(↑全編はこちら)

おそらく今までで読んだことがある短編小説の中で、一番好きだと思う。

時代背景は昭和の第二次世界大戦中、14歳の眼鏡をかけた女生徒「私」の一日を描いた短編小説。
別に何か大きな起承転結があるわけじゃない。

この小説の面白いところは、14歳の少女の多感な感性を、30歳頃の太宰治が描いている点。

人の思考ってその人のフィルターを通して送受信されると個人的に思ってるんだけど、14歳の少女という設定で発信する発想が好い。

今の自分自身は14歳の少女とかなり掛け離れている。
初めて読んだのは中学生の頃だったから、ちょうど同世代の話だと思ってたけど、リアルタイムで生きてたらあっという間に中年になった。
本は歳とらないもんね、そこが好き。

10代の頃の取り留めのない思考、30代の今みたら懐かしいような嬉しいような恥ずかしいような。でも、今も案外そんなもんかもな、そうでもないかな、
…なんて。

そんな、「女生徒」のお気に入りをいくつかご紹介。

ある夕方、御飯をおひつに移している時、インスピレーション、と言っては大袈裟おおげさだけれど、何か身内にピュウッと走り去ってゆくものを感じて、なんと言おうか、哲学のシッポと言いたいのだけれど、そいつにやられて、頭も胸も、すみずみまで透明になって、何か、生きて行くことにふわっと落ちついたような、黙って、音も立てずに、トコロテンがそろっと押し出される時のような柔軟性でもって、このまま浪のまにまに、美しく軽く生きとおせるような感じがしたのだ。

何かひらめいた時って、透明で柔軟で美しい気持ち。
生きていけるような気がする。
頭の中で、雷か神の啓示か、はたまた忘れていただけなのか、何かぱっと出てくることがある。
たしかに、昔とある綺麗な水がある山の中で見た、竹筒からそろっと押し出されるトコロテンに似た感じ。

このくだり、時々思い出しては、もしかしたら明日あたりも、まだ今のところ生きていけるかもしれない、と思っている。

本能、という言葉につき当ると、泣いてみたくなる。本能の大きさ、私たちの意志では動かせない力、そんなことが、自分の時々のいろんなことから判って来ると、気が狂いそうな気持になる。どうしたらよいのだろうか、とぼんやりなってしまう。否定も肯定もない、ただ、大きな大きなものが、がばと頭からかぶさって来たようなものだ。そして私を自由に引きずりまわしているのだ。引きずられながら満足している気持と、それを悲しい気持で眺めている別の感情と。

なぜ私たちは、自分だけで満足し、自分だけを一生愛して行けないのだろう。本能が、私のいままでの感情、理性を喰ってゆくのを見るのは、情ない。ちょっとでも自分を忘れることがあった後は、ただ、がっかりしてしまう。あの自分、この自分にも本能が、はっきりあることを知って来るのは、泣けそうだ。お母さん、お父さん。時代や文化がテクノロジーが進んだって、好意的でもそうでなくても、何らかの形で存在自体意識せざるを得ない。

なぜ私たちは、自分だけで満足し、自分だけを一生愛ぽじ行けないのだろう。

…自分自身不器用だからかな?よくわからないけど。

家族なり友人なり(独身時代の)恋人なり、他者と自分との関わりを意識して生きないといけない。それで嬉しかったり悲しかったり怒ったり、感情が揺り動かされてく。それをちょっと離れて観てる自分もいる。
だからといって、別に今この瞬間にすぐどうできるわけでもない。

自意識と、生き物としての本能やそれにまつわる諸々と、支離滅裂になりながら、泣きそうな時のこと。
こんなに明確に描かれていて、初めて読んだ時はこっちが泣き崩れそうだった。

夕焼の空は綺麗です。そうして、夕靄もやは、ピンク色。夕日の光が靄の中に溶けて、にじんで、そのために靄がこんなに、やわらかいピンク色になったのでしょう。そのピンクの靄がゆらゆら流れて、木立の間にもぐっていったり、路の上を歩いたり、草原を撫でたり、そうして、私のからだを、ふんわり包んでしまいます。私の髪の毛一本一本まで、ピンクの光は、そっと幽かすかにてらして、そうしてやわらかく撫でてくれます。それよりも、この空は、美しい。このお空には、私うまれてはじめて頭を下げたいのです。私は、いま神様を信じます。これは、この空の色は、なんという色なのかしら。薔薇。火事。虹。天使の翼。大伽藍がらん。いいえ、そんなんじゃない。もっと、もっと神々こうごうしい。

「みんなを愛したい」と涙が出そうなくらい思いました。じっと空を見ていると、だんだん空が変ってゆくのです。だんだん青味がかってゆくのです。ただ、溜息ばかりで、裸になってしまいたくなりました。それから、いまほど木の葉や草が透明に、美しく見えたこともありません。そっと草に、さわってみました。
美しく生きたいと思います。
(中略)
鏡を覗くと、私の顔は、おや、と思うほど活いき活きしている。顔は、他人だ。私自身の悲しさや苦しさや、そんな心持とは、全然関係なく、別個に自由に活きている。きょうは頬紅も、つけないのに、こんなに頬がぱっと赤くて、それに、唇も小さく赤く光って、可愛い。眼鏡をはずして、そっと笑ってみる。眼が、とってもいい。青く青く、澄んでいる。美しい夕空を、ながいこと見つめたから、こんなにいい目になったのかしら。しめたものだ。

たまに、空を眺めていられるような機会に恵まれたら、空の色とか光とかを見つめていると、自分だけじゃなくて世界を丸ごと愛したくなる。

毎日じゃなくていいけど、たまに、空を眺められる生活がしたいな、と思う度に思い出す話。



実のところ、想像力が必ずしも人生の幸福感に繋がるのか、よくわからない。

著者の太宰治は38歳没、自分は同じ30代だけど、生きていられるうちに答えなんて出ないかもな。

ただ、個々の人生のその時々に感じたことはいつも本物だし、正解も不正解も無い。それだけのこと。



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