美男子と煙草(太宰治 短編小説)

(↑全編はこちら)

独りで何かと戦って、どうにも悲しくなったときにとてもよい、短編小説。たぶん十数分あれば読める。

主人公「私」は太宰治、著者本人。

   私は、独りで、きょうまでたたかって来たつもりですが、何だかどうにも負けそうで、心細くてたまらなくなりました。けれども、まさか、いままで軽蔑しつづけて来た者たちに、どうか仲間にいれて下さい、私が悪うございました、と今さら頼む事も出来ません。私は、やっぱり独りで、下等な酒など飲みながら、私のたたかいを、たたかい続けるよりほか無いんです。

(中略)

ああ、生きて行くという事は、いやな事だ。殊にも、男は、つらくて、哀しいものだ。とにかく、何でもたたかって、そうして、勝たなければならぬのですから。

そんなとき、雑誌社の若い記者が「上野の浮浪者と太宰が一緒に写っている写真を撮りたい」と妙な話を持ちかけたので、太宰は記者と共に上野へ向かった。

太宰は上野の地下道で、10歳前後の浮浪児達が煙草を吸っているのを見かけ、哀れみを感じ、咄嗟に焼鳥を買い与えた。

 これでも、善行という事になるのだろうか、たまらねえ。私は唐突にヴァレリイの或ある言葉を思い出し、さらに、たまらなくなりました。
 もし、私のその時の行いが俗物どもから、多少でも優しい仕草と見られたとしたら、私はヴァレリイにどんなに軽蔑されても致し方なかったんです。
 ヴァレリイの言葉、――善をなす場合には、いつも詫びながらしなければいけない。善ほど他人を傷つけるものはないのだから。

太宰は、浮浪児達が皆、美男子であったこと、どん底に落ちても煙草を吸わなければならぬことが、どうにも他人事とは思えなかった。

「実は、僕なんにも見て来なかったんです。自分自身の苦しさばかり考えて、ただ真直を見て、地下道を急いで通り抜けただけなんです。」
(中略)
 自惚れて、自惚れて、人がなんと言っても自惚れて、ふと気がついたらわが身は、地下道の隅に横たわり、もはや人間でなくなっているのです。私は、地下道を素通りしただけで、そのような戦慄を、本気に感じたのでした。

(中略)
さっきの四名の少年が冬の真昼の陽射ひざしを浴びて、それこそ嬉々として遊びたわむれていました。
私は自然に、その少年たちの方にふらふら近寄ってしまいました。
「そのまま、そのまま。」
 ひとりの記者がカメラを私たちの方に向けて叫び、パチリと写真をうつしました。
「こんどは、笑って!」
 その記者が、レンズを覗のぞきながら、またそう叫び、少年のひとりは、私の顔を見て、
「顔を見合せると、つい笑ってしまうものだなあ。」
 と言って笑い、私もつられて笑いました。

天使が空を舞い、神の思召により、翼が消え失せ、落下傘のように世界中の処々方々に舞い降りるのです。私は北国の雪の上に舞い降り、君は南国の蜜柑畑に舞い降り、そうして、この少年たちは上野公園に舞い降りた、ただそれだけの違いなのだ。

…どうにも孤独で、何かと戦って、悲しくてやってられないときが自分にもいろいろ思い当たる。
それこそ酒や煙草の力を借りないとやってられない。

世の中のせい?自分のせい?何のせいだろうが、やってられるか、という思いが全て。

浮浪児も太宰自身も、他のいつの誰もが皆、この世に降り立つ場所は違えど、翼が消え失せた天使たち。

孤独を感じた時、どんなきっかけでもいい、とにかく視点をぐいっとマクロにすれば、存外に笑えるのかもしれない。

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