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ドッペルゲンガー
自分を救えるのは自分だけ。
誰かが言っていて自分は聞いていた。
聞いていたけどそれを拒絶していた。
拒絶してそれを振り回して自分を貶していた、殴っていた。
自分で自分を徹底的に批判して壊して壊して貶して壊して壊した。
それを「辞めよう」と言った自分がどこかに居て自分が言ったのかわからなかった。
言った人間がようやくわかった。
殴られている自分が「もう辞めよう」と言っていたから。
ふつう、殴られている側がそんなこと言うはずがない。
だけど言っていた。
それが自分の中の答えで「辞めたい」本心。
自分というドッペルゲンガー。
ドッペルゲンガーは世界に三人自分の同一の存在があって、それが一組が出逢えばお互いに対消滅するという存在だ。
対消滅。は、お互いに消えるという意味。
だけど、ドッペルゲンガーとして自分を見る、投影することで見えなかった自分が見えるようになった。
ほんとうに見えなかった自分が見えるようになった、聞こえるようになった、そこに確かに存在していた。
自己否定と自己憎悪するドッペルゲンガーは確かに自分で、それを受けに受けて受け止めたそこに居たドッペルゲンガーも確かに自分で、殴られる、蹴られる、壊される、撃たれるドッペルゲンガーも自分だ。
自分で自分を殺す、殺されるドッペルゲンガーも自分だった。
其処に居たドッペルゲンガー全部が自分で、ドッペルゲンガーが自分で自分は、自分。
ペルソナでもなくて、道具でもなくて、人間以下の自分じゃなくてドッペルゲンガーの自分。
ドッペルゲンガーは自分だった。
影が形になって、影の形がわかることによって自分のことがようやく見えた。
だから「辞めよう」と思った。
「辞めよう」と思ってもすぐには治らないから、少しずつ、半半歩でいいから、
止まっていた。道が半半歩見えた。
そして音楽で救われた。
結束バンドの「ドッペルゲンガー」と、
ASIAN KUNG-FU GENERATIONの「Re:Re:」
「ドッペルゲンガー」に書かれてある歌詞は自分で確かに自分がそこに居て君は僕で僕は君で、ドッペルゲンガーは自分だった。
自分のドッペルゲンガーとして投影と認識することでようやく自分という人間の影が見えた。
音楽によって、自分という人間は自分でようやく救うことができた。
言葉であって、音楽でもある結束バンドの「ドッペルゲンガー」は、
まぎれもなく自分のドッペルゲンガーそのものだったのだから。
それでようやく、一歩じゃなくてもいいから半半歩でいいから進むことができた。
これが自分を救うことに繋がって、
「自分いじめ」を少しずつ「辞めよう」と思えるようになった。
「Re:Re:」に書かれている歌詞に居る「君」と「僕」はドッペルゲンガーの自分で、
自分は自分を待たなかったけど、別のドッペルゲンガーの自分が待っていた。
待っていてくれた。自分を待つ自分はどこにもいないと思っていたけど、
確かに僕を待っていてくれた。
一歩も半歩も進めなくて半半歩しか進んでなかった自分を自分のドッペルゲンガーは待っていてくれた。
自己否定しても、自己憎悪しても、自分を殺しても、壊しても、
それでも待っていてくれた。
合っているとか、間違っているとかじゃなくて、
それが見つかっただけで、
よかった。