藤田幸也さん。
ヴィジュアル系の音楽を色々と聴いてきて、ずっとその動向を追いかけている人が2人居るんですけれど、その中のお一人を今日は取り上げたいと思います。
その方がこの人。
YUKIYAこと、藤田幸也さんです。
D≒SIRE、JILS、Kαinのヴォーカリスト。
自らレーベルを運営されており、多くのアーティストのプロデュースも手掛けられておりました。
僕が幸也さんの音楽と出逢ったのはD≒SIREの活動が終了する直前の1998年の事でした。
当時、SHOXXというヴィジュアル系を取り扱っていた雑誌を購読し始めた頃。
最初のページに掲載された解散告知でした。
丁度この寫眞だったと思います。
解散にあたって、アルバム『異窓からの風景』、ラストシングル『STAY』の発売を告知するものでした。
時期としてはヴィジュアル系が世間的に加熱し始めた頃ではありましたが、当時の自分はメジャーのアーティストを追うので精一杯。
メジャーに出ることによって音に一定の保証が付与されると思っていたので、この頃は気になってはいたものの、購入には至っていませんでした。
そこから数ヶ月経った頃でしょうか?ふと立ち寄った繁華街のCDショップにヴィジュアル系インディーズの棚があったのです。
当時、インディーズのアーティストが注目され始めてはいたものの、大きく展開しているCDショップはまだ珍しかった時です。
気を惹かれた僕はじっくり見ていると一枚の横置きになっているCDを発見しました。
それが、D≒SIREの『異窓からの風景〜失われた終末の情景〜』だったのです。
そもそもバンド名さえ何と読むのかをこの場で知った位です。
そして、数ヶ月前にSHOXXで見た事を思い出し、試しに購入したのが始まりでした。
一曲目のSEである『Re:mind』が終わって、次の曲…
『DREAMS BURN DØWN』を聴いて一気に持って行かれてしまいました。
その次の『Cloudy』へ間髪を容れずに雪崩れ込んで行く構成にもヤラレました。
気付くとずっとこのCDのDISC1を無限にループして聴いていました。
「何このバンド?メチャクチャ良いじゃないか!」
となってしまい、次の週にはまたCDショップに行き、ラストシングルとなった『STAY』を購入して、これもずっと聴いてました。
いやー。本当に格好良いんですよ。D≒SIREで間違いなくベスト3に入る曲だと思っています。
聞けば聴くほど、「何でこんなバンドが解散するんだ?」と思っていました。
そんな中、意外な所で幸也さんの名前を目にする事になります。
1998年といえば、今なおヴィジュアル系の世界では一大事と言われる事件が起こった年でもあります。
それは…
Dir en greyがシングル『-I’ll-』をリリース
したのです。
ご存知の通り、この曲はインディーズ作品でありながら、オリコン初登場7位を記録。
当時のシングルメジャーチャートとしては異例の売り上げを誇り、多くのメディアが『X JAPANを超えたバンド』と報じました。
この話題に乗り遅れないようにと、僕も購入して聴いたのですが…
イントロどっかで聴いたことあるぞ!オイ!
となったのです。
はい。当時毎日のように聴いていたD≒SIREの『追憶』と瓜二つだったんです。
そして、このCDの編曲者を見ると『YUKIYA、聖詩(D≒SIRE)』のお名前が。
でなきゃあのイントロは止めますよね?普通は。
実は当時、FREE WILLのトミー氏がDir en greyを売る為にメジャーな曲を作りたいという事で、メロディの良さに定評のあったお二人にプロデュースの依頼があったそうです。
この前の『JEALOUS』からプロデュースをされていた事もこの時に知りました。
この年にはRayのラストアルバム『EVER SEEN』のプロデュースも手掛けられていたことから勝手に、
この人達はもう表に出ないでプロデュース業をやって行くのかな?
と思って、惜しいなーと思った事を覚えています。
そして、次の年の1999年秋、またしてもSHOXXの告知で衝撃を受けます。
当時のものではないのですが確か、このロゴの下にメンバーの名前が記されていた記憶があります。
『YUKIYA+SHUN+MARIKI+HIDEYOSHI』
となっていたと思うんですが、気の所為でしょうか?
何ですと?
となった衝撃は大きかったですね。
そして、ここにクレジットされていたSHUNという名前が当時人気バンドであったVasallaの舜さんだったという事を後に知って更に驚きました。
これって、聖詩さん以上のギタリストに出逢ったって事なの?
と期待は自分の中でみるみる膨らんでいきました。
あと、この告知と同時に確か『独白』のデモテープ発売の告知があったのかな?
↑記憶が曖昧です。独白も買ったので、恐らくはそうだったと思うのですが…
そしてその日の11月11日、『白』『黒』の2本のデモテープがリリースされます。
当時、初めてデモテープを予約して購入しました。
世の中には予約しないと買えない音源が存在するという事を知った初めての経験でした。
プレイヤーに入れて聴くと、あの声がまた流れてきた事に感動しました。
これほどまでに新しい音にこの声が乗っている事に感動した経験っていうのは今まで無いと思います。
D≒SIREの要素はありながらも、流れている楽曲は別物でJILSが今後どんな音を出していくのかが非常に楽しみになりました。
その年の12月24日、今後恒例になる『赤い花』が行われ、
ライブタイトルである名曲『赤い花』が配布されました。
この『赤い花』という曲がとんでもない名曲なのですが、
この曲実は幸也さんが「JILSのライブで配布する為に曲を書かないとなー」となってから、たった1時間程度で出来た曲だそうです。
デモも自ら音を重ねて行って製作されたそうで、非常にアッサリと出来たそうです。
あと、赤い花をライブで観客が振る演出は、The Smithのモリッシーの影響だそうです。
もう最初のライブで今後の定番の雛形を造られているのはプロデューサーとして非常に能力の高さを再確認します。
そんな待望の活動再開を果たした幸也さん。
その活動はまさにインディーズバンドの良さを凝縮したような活動でした。
そして、その方法はその後様々な後輩バンドに影響を与えて行きます。
JILSの活動はバンドの活動の方法は非常に消費者心理を突いた行為だったと思います。
まず、音源を限られたショップで流通させるという方法です。
JILSとして最初に製作した曲である『MY DEAR』という曲があるのですが、この曲を収録したデモテープを当時、新宿の自主盤倶楽部限定でリリース。
当時、まだ雑誌媒体が強かった時代に、CDショップの広告が非常に影響が大きかったという事を利用しつつ、このショップに何らかのアクセスをしなければいけなかった。
そうやってショップの宣伝もしつつ、販売するという方法は非常に面白く思いました。
そして、音源のリリース方法として最も心憎かったのはライブでの音源の配布です。
当時は多くのバンドがライブ音源を会場限定で販売していました。
それは、元々インディーズバンドがショップに音源を置いて貰う方法として、委託販売が主だった事が大きく影響していると思います。
その委託費を捻出する事が出来ないバンドは『会場限定音源』と銘打って売ることが多かった。
また、全国ツアーをする際に、動員を確保する為にその時にしか手に入らない音源を持って帰って貰う事によって動員を増やすという方法でした。
そして、人気バンドになるとそのような音源はプレミア価格で取引されることが多く、観客側も不要ならば売り払ってしまえばチケット代位は戻ってくるというような仕組みが出来上がっていました。
しかし、動員も十分であろうJILSは毎回のライブ毎にこの音源配布を行いました。
時にはそれがVHSの映像作品であったりもして、当時としては非常に太っ腹な営業方法だったと思われます。
加えて、そんな曲が全国流通している楽曲よりも後々名曲に化けてくる傾向も強かった。
幸也さん曰く、「様々な事情に都合をつけて自分のライブに来てくれるファンの人達へのお土産」だそうで、そのスタンスは今でも変わっておられません。
ライブは主に東京での開催であった為に全国のファンは本当に困りました。
ライブが観られない上に、新曲を手に入れる機会さえ失われるのか!と憤慨した人は多かったのではないでしょうか?
しかし、この飢餓感がまた当時のファンを刺激しました。
当時の人々は普及し始めたネットを駆使し、ダメではあると分かっていても東京のファンにコネクションを作り、配布された音源のコピーを必死に入手しました。
それから互いに推しのバンドの音源を送り合ったりしたものです。
そうやって知ったバンドが多かったというのも当時の数多あるバンドの中からお気に入りを見つける事には非常に寄与してくれるものでした。
著作権法違反なのは分かってるよ?
しかし、そのアイテムをショップから状態が不明な通販で買うのはリスキーでしたし、何にせよお高かったです。
普通に一曲入りの音源が10000円とかしてましたからね。
それでまだアーティスト側が潤うならばまだしも、潤いませんからね。
そうなるとまたこの曲を生で聴きたい!という欲求が湧き起こってライブを心待ちにしたり、我慢できない人は東京にまで足を運ぶという遠征文化に手を出す事になって行きます。
そして最も大きな功績というのがライブ会場の発掘です。
この界隈でインディーズでありながら当時の赤坂BLITZでワンマンライブをやったり、東京キネマ倶楽部でライブをやったりしたパイオニアです。
その後、多くのバンドがこの会場でライブをやる事が増えました。
地方でも多くの比較的新しいライブハウスでのライブなどを行われたのは非常に印象的でした。
こうやって、自分たちだけでなく、多くのバンドファンへ向けた活動方法はコアでありつつも業界全体を大きく刺激する方法だったと思います。
そして、後輩のミュージシャンを積極的に登用された事も大きかったです。
自身がレーベルを運営されては居ますが、そのレーベルに所属していないバンドでもいいと思ったバンドやミュージシャンに関しては積極的に自身主催のイベントに参加を促されていました。
個人的に一番印象的だったのはwyseです。
Ba.の拓磨さんが当時16歳でD≒SIREのサポートをされていた事をキッカケにイベントに参加され、一気にwyseという存在が東京でも知られるようになりました。
Rayは解散後も関わりが深く、CUNEの名曲『Butterfly』はJILSの『赤い花』のアンサーソングとして亮三さんが作った楽曲でもあります。
善徳さんはRay解散後に行われた前述のwyseが出演したイベントに出演した際に、田澤孝介氏にヴォーカリストとして白羽の矢を立てて当時はユニットとして出演した事がWaive結成のキッカケにもなりました。
このように様々な大きな功績を残されるのですが、自身のバンドであるJILSとしての活動は波瀾万丈でした。
赤坂BLITZのライブを終え、2度の地方でのライブを終えた後にバンドから幸也さんと舜さん以外のメンバーが今後のバンドの方向性の違いによって脱退。
その後、一朗さんと秀誉さんが加入する事で再始動するものの、秀誉さんが脱退。
その後幸也さんがJILSを脱退するという事で解散が決定します。
その直前には活動拠点は東京が多かったものの、大阪、名古屋でもライブがあったり、全国ツアーも組んで活動をされるなど、ライブに行ける機会が多くなったのは嬉しく思いました。
現在はバンドKαinのヴォーカリストとして活躍される一方で、盟友であるミュージシャンと共にソロ活動も展開されております。
僕がずっと追いかけている理由の一番はシンプルに作られる楽曲がものすごく好きだからです。
昔、インタビューでしたか、インストアイベントかで仰っていたのが、
『喜怒哀楽の感情の中で哀の感情が最も強く残る』
という言葉が凄く印象に残っています。
JILSのアルバムにも『SAD SONGS』という直球なタイトルが付いている事からも最も大切にされている感情なのだと思います。
確かにいい思い出って思い出せるけれど、その時の嬉しさって薄れていく気がするんです。
多分、人間嬉しさって日々更新されて行くもので、嬉しさの感情を持つ為のハードルっていうのは歳を経る事に上がって行く気がするんです。
それは経験によって生じる結果をある程度予測できたり、成功に導く為の道筋を作ることが出来るようになっていくからではないかと思っています。
成功はある程度心の準備ができるけれど、哀しみはいつも突然にやってきて思いもかけない傷を付けて行く。
その衝撃は大きく、いつまでもその経験は心の中に注意として残り続ける。
残り続けるだけではなく、時を経るに従って大きくなることさえある。
しかし、だからこそ人が一番想像しやすく感情移入しやすい感情なのかもしれません。
だって、映画とかでも「全米が泣いた!」というのが宣伝文句として成立するんですから。
本当にこんな詩を歌い続けて辛くないのかな?と思います。
メチャクチャ繊細な人じゃないですか。
だからこそ多くの人の心を打てるんでしょうと思います。
しかし、疑問に思うのがこういう人って近代では多くの女性にモテモテの筈なのに何故か女性よりも男性の方にモテモテなのは何故でしょう?
文豪や詩人って女性の心を多く奪うものなのに、こればっかりは不思議で仕方がない。
それは、幸也さんが文豪でなく(いや、そうであるとも言えるが)、ミュージシャンである事が大きいからでしょう。
だって、あんなギターソロとか曲の構成とかある種の男っぽさというか、少年っぽいんですよね。
ギターキッズが憧れる楽曲。
そして、男の女々しさを刺激するようにノスタルジックな楽曲を演奏したりするものだから男の比率がどんどん増えていく。
もうこれは仕方ないんでしょうと思います。
君は今どこにいますか
うまくいかない事だらけの毎日が
こんなにも理想とは違う毎日が
それでも二度と戻らない貴重な一日なのだと
忘れずに生きていますか
という詩が現実になってしまったようなこの時勢、
更に響いてしまう言葉を紡いでいるのがこの人だと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?