PUNK&Lolita Candy Stripper
Lolitaというファッションジャンルが確立してから、Lolitaは大きく枝分かれをしました。
ゴシック、クラシカル、甘などなど…
ロリータという名前が付いていなくてもそのテイストを入れ込んだスタイルは現代において数えきれない程のものとなりました。
その中でも、LolitaのスタイルとPUNKのスタイルが融合したロリパンクというジャンルがこれらの中でも大きなカテゴリーとして存在しています。
LolitaがVivienne Westwoodのクリエイションを好む傾向のある事から、この融合は必然でありました。
花柄のワンピースにライダースジャケットなど、可愛いものとハードなものを組み合わせるという事は一部の人達には行われていましたが、それをしているのはまだごく一部でした。
恐らく、ロックを嗜好していた女子が合わせたりしたのがキッカケだったのではないかと思います。
MILKでは当然の如く行われているこのスタイルですが、そのスタイルを押し出す事に一役買った日本のメゾンがあります。
それがCandy Stripper。
今なお10代、20代に人気を誇るメゾンです。
Candy Stripperは1995年、板橋よしえと菊地千春の2人によってバンタンデザイン研究所在籍時に立ち上げられたメゾンです。
元々アパレル業界で働きたいとは思ってはいつつも、在学中に明確にどの職種を選ぶかを迷っていた2人が様々な業種を経験。
一度はお互いに大手のアパレル業界に就職し、洋服作りは趣味の延長線上として運営しようと考えていましたが、あまりの人気に本格的に始動する事を決めます。
バンタン在籍中に定期的に開催していたファッションショーが好評を博していた事に加え、当時の『CUTiE』編集部にも出入りがあった事と、2人の作る洋服を編集者が注目していた事から、まだ駆け出しでありながらも誌面に連載を持ち、
本格的に始動する前からデザイナーの2人の動きは読者からも大きな支持を集めていました。
しかし、その人気に反してCandy Stripperのアイテムは大きく展開する事はありませんでした。
販売経路としてまずセレクトショップでの委託販売を模索するも、そのショップに合うものだけを希望されるセレクトショップの営業体系では、トータルコーディネートでメゾンの世界観をユーザーに届ける事ができないと判断していた二人は、自分達が作った洋服を全て置いてくれるショップでないと良しとはしませんでした。
その結果、都内に一件だけ取り扱ってくれるショップを作る事は出来たものの、その人気からいつ行っても完売に近い状態になってしまっていて、残念ながら多くの人に魅力を伝える事には至らなかったそうです。
しかし、それでも彼女たちはインディペンデントなやり方に拘りました。
自分達で洋服を作り、それをモデルに着用してもらって写真を撮る。
それをカタログとして欲しい人に通販してもらい、そのカタログから欲しいものを通販してもらうという形で作品を販売します。
ただ、買う側としては歴史が浅くサイズ感をうまく掴む事が難しい新規メゾンの洋服を実際に着用する事なく購入するという事は非常に勇気が必要な事だったと思います。
そんな中で、2人には自分のお店を持ちたいという気持ちが非常に大きくなって行ったそうです。
そうして生まれたCandy Stripperの一号店は何と京都でした。
当時、京都河原町の一等地にあったVIVREというファッションビル。
そこのテナントとして先ずは店を構えるという事になったそうです。
当時、VIVREは百貨店や京都のBALなどと差別化を図る為に主にティーンをターゲットとした日本の新進気鋭のデザイナーにテナントとしてお店を持たせる事に力を入れていました。
その中で全国で話題になっているメゾンであるCandy Stripperに白羽の矢が立ちます。
そしてショップに提案された場所というのが非常階段の踊り場のスペースでした。
そう言えば踊り場にテナントを誘致するっていう方法最近のテナントの方法としては見ないですね。
消防法的に今はアウトなんでしょうか?
坪数的にもそんなに広くはなかったショップではあるものの、オンリーショップとして、常にアイテムが存在しているショップが誕生しました。
このお店には全国からCandy Stripperの洋服を求める人が集まり、非常に大きな成果を出しました。
セール時期には店舗前の非常階段を埋め尽くす程の人が集まるなど、その人気を大きく世間に知らしめる結果となりました。
その結果、当時の原宿で少しずつ人気の出始めていたBA-TSUやSUPER LOVERSなどをVIVREに誘致される事になりました。
特にBA-TSUなんかは京都になければ当時Dir en greyの京さんとのコラボネクタイとか販売されなかったかもしれませんね。
原宿が一番勢いがあった時期、京都に多くのメゾンを誘致する事に繋がった出来事であったと思います。
もしかしたら、新規でメゾンを立ち上げようと考えていた人達には一時期は大阪よりも魅力的な土地だったかもしれません。
京都のショップが成功したとなれば、東京にもショップをという気運が高まった事で満を辞して東京に旗艦店を構える事になります。
そうして旗艦店を持ったCandy Stripperは大躍進を果たします。
当時大人気だったJUDY AND MARYのYUKIを筆頭に、PUFFYや当時のCUTiEのカリスマモデルであったYOPPY、吉川ひなの、SHAKA LABBITSのUKIなどのティーンに絶大な人気を持つ人物がこぞって着用します。
女性に限らず、GLAYのTERUさんとのコラボでツアーグッズを作成したりと、日本のロックシーンにその名を印象付ける事に時間は掛かりませんでした。
現在ではLiSAさんという現代のロックディーヴァと定期的なコラボレーションをされております。
人気に火が付き、ティーンの憧れとなったCandy Stripperでしたがデザイナーの菊地千春さんが2008年に退職。
その後、現在まで板橋よしえさん1人でデザイナーをなさっております。
菊地さんは現在『Mothers Made』というメゾンを立ち上げられ、リメイクした一点ものの洋服をお作りになられています。
Candy Stripperのスタイルは多くのメゾンで取り入れられ、今では珍しいものではなくなりました。
格好良さと可愛さを組み合わせる事で不思議な魅力を演出するというのは、極めて日本的な考え方だなと思うものの、考えてみるとセクシーさというものには格好良さの中に少しの可愛さがある。
可愛さの比率が違うだけで、そのスタイルは美しいものなんでしょう。
今でも面白いなと思うものがCandy Stripperからは数多くリリースされます。
GLAYのTAKUROさんとの対談で板橋さんは、過去のアイテムを再販すると言う事にはあまり前向きではないと仰っておりますが、やはりその声は大きかったりするようで、その際には現在と過去のテイストをミックスする事で対応するという事が非常に印象的でした。
確かに大ヒット曲を多数持つロックバンドのLiveで、その曲たちを聴きたいと思うファンの声はやっぱり大きいだろうけど、同じ曲でも当時奏でられていたものとは違うものになるのは必然だし、同じ曲でも違う。
クリエイターとユーザーがお互いに楽しめる関係性には、少しの新しさが加わった方がお互いに楽しいし嬉しいものでもあるでしょう。
ルナフェスのセッションでHISASHIくんがLUNA SEAの曲のギターソロに自分の曲のギターソロを合わせるみたいなものですよ。
そういう作り方をされる方だからこそ、今も根強いファンが存在するメゾンであり続けているのだと思います。
久しぶりに見たくなっちゃったな。キャンスパ。
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