見えない帳の奥に
ほんのり漂う酒の匂いが、温い夜風と共に父の匂いと混じり、鼻を掠め、二人を覆う真っ黒な空が、握った手の温度をあきらかにし、今でもまだ、帰り道を共に歩いているまま。
その店は、消防署の真ん前で、小学校の通学路でもある道沿いの長屋の一番端にあった。父と歳が近い五十代半ばの大将が営む焼き鳥屋。平仮名の店名が書かれた濃紺の暖簾が、長屋の装いと相成って、昭和風情を強くする。入り口右横の窓の奥は焼き場になっていて、夕暮れ時は開けた窓からいい匂いがする。カウンターと小上がりの席の奥は、引き戸一枚隔てて大将夫婦の住まいへ繋がっている。
月に一二回、仕事から帰ってきた父と二人でここへ来る。母は留守番の体であったが、夕飯作りが億劫な時だったのだろう。
夕暮れを少し過ぎた頃。暖簾をくぐり、高めのカウンターの手前に腰掛ける。置き場のない足は、ぶらりと下ろして。
大将がパタパタと団扇を扇ぐ度に、もくもくの白い煙と美味しそうな匂いがする。
美味しそうな匂いと父が吸うタバコの匂いの奥にある、全体を覆う濡れた日陰の土の様な匂いが、ほんとは居てはいけない所のように、少し感じた。
薄い緑がかった小さな瓶から注がれるコーラと、ラベルが張られた大きい瓶から注がれる黒ビール。大人のコーラだよ、大人なったら美味しいよ、と言いながら飲む父。普段は滅多に飲ませてもらえないコーラと共に、父と私だけの時間は、もくもくの煙と共に過ぎる。ずっと傍に在ると信じて疑わず、当たり前の、時間。
大将は、いつも私を可愛いと言ってくれて、それを横で聞いて照れる父を見て、私も更に照れた。若くない歳で出来た娘を、どのように思っていたのだろうか。他の子の親よりも二回り程も歳が離れ、祖父と言っても違わぬ齢。過保護では無かったが、それ故の父なりの愛情を十分に感じていた。
父が頼む焼き鳥は、全て塩で焼いてもらう。つくねもまた然り。一口で食べられる小ぶりの肉団子が連なり、串に刺さっている。外側の焼き目のカリカリを経て、中のほろほろの肉。甘いタレが掛かった柔らかいつくねも好きだが、専らこの塩のつくねを食べていた。何故なら、大好きだと言ったら、父が必ず頼んでくれる様になったから。父が喜んで頼んでくれることの嬉しさから、尚一層、塩のつくねへの贔屓が増した。
トコロテンの季節になると、大将は私をカウンターの中に入れてくれた。踏み台に上がり、調理台に手をつく。四角い木の筒から、ぐにゅーっと押し出したトコロテンをガラスの器に盛ると、大将は横から酢を回し掛け刻み海苔をのせてくれた。それを両手で持ってカウンターに座る父の横へ行き、差し出した。
喜んでくれた父と一緒に食べれたトコロテンの酸っぱさは、今はもう舌の奥に眠ったまま。
店を出て、帰路へ着く。自宅まで五分程の距離を、並んでゆっくり歩く。家に無い匂いを纏った父の中に、違う誰かを少し感じながら歩く。首をグンとしなければ顔を見れない父の手も、また、大きい。握りきれない手から、親指だけをぎゅっと握る。父はそんな私の手を、全部の指で包み込む。少し汗ばんだあつい手。いつ何時も、必ずあって然りの大きな手に、何の疑いもなく全身を以って、愛情と幸せを体に染み込ませた。
曼珠沙華の季節、塩のつくねを思い出しながら。
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