「おはよう、私」②(短編連作小説 & 音楽)第2話
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第2話・葵
朝。
アラームの音が意識に届く。
細く開いたカーテンの隙間から、細い光がこぼれている。
ああよかった今日はいい天気なんだなと、まだ半分眠りの中にいる頭で反射的に考える。
* * * *
昨日の朝は雨だった。
雨の日は、子どもを保育園に送るのにいつもより時間がかかる。
レインコートを着こみ、自転車の後ろに乗せた子どもに椅子ごとすっぽり雨除けカバーをかぶせ、自転車を漕ぐ。
たったそれだけのことなのに、どういうわけかいつもより15分は余計に時間がかかってしまうのだ。
朝の15分は貴重だ。
その15分を捻出しようと焦ったあげく、昨日はそもそもの始めからボタンを掛け違えてしまった。
昨日、娘は朝から機嫌が悪かった。
大好きなはずのバナナヨーグルトは食べ始めて10分経ってもほとんど減らず、「ママお仕事に遅れちゃうよ。ねえ、早く食べちゃって」と、ついきつい声で言ってしまった。
しまった、と思ったときには遅かった。
みるみるうちに娘の目に涙が溜まり、「いらないっ」とスプーンを放り投げる。床にヨーグルトが飛び散り、はずみでコップが倒れ麦茶がこぼれた。
思わず目を閉じる。
あと15分で家を出られなければ、遅刻確定だ。夫はすでに出勤していて、助けはない。
「いやいや期は発達の自然な姿であり、成長を示す喜ばしいことだ」と、育児書で読んで知ってはいる。知ってはいるが、待ったなしの日常でそういう事態にでくわすたび、否応なく焦りとパニックはやってくる。
せり上がる焦りを抑えるために、目を閉じたまま深呼吸し、心の中で努めてゆっくり数を数える。一、二、三、四、五。
落ち着け私。頭を切り替えろ。
いま大切なのは、娘が笑って朝ごはんを食べることと、仕事に遅刻しないこと。
食事のしつけはこういうときにすべきではないと、テレビでどこかの専門家が話していた。
目を開けて、娘の着ている服を確かめる。
濡れていない、着替えさせる必要はない。こぼれた麦茶もテーブルの上に留まって、床にまでは届いていなかった。
よし、だいじょうぶ。
床に転がっているスプーンを拾い上げシンクに置き、新しいスプーンを出してテーブルに戻る。
目に涙を溜めて精いっぱい睨みつける娘の視線を感じたまま、左手でこぼれた麦茶を拭き、右手でスプーンを人形のように動かして、声音を変えてスプーン人形を演じてみる。
「あれおかしいな、今日はぼく、うまくヨーグルトさんを運べないみたい。よっこらしょっと…わあ危ない、またこぼしちゃいそう!」
目に涙を浮かべたまま、それでもじっと、娘は私の演じるスプーン人形を凝視する。
「あ、さやちゃん、こんにちは」
娘に向かってスプーンでお辞儀をしてみせる。
娘はつられて「こんにちは」と頭を下げた。はずみではらりと涙が落ちる。
涙のしずくに気づかないふりをしたまま、私は「スプーンくん」として会話を続ける。
「さやちゃんあのね、ぼく、今日はなんだかうまくヨーグルトさんを運べないみたいなの。よかったら、お手伝い、してくれる?」
半信半疑でスプーンを見つめたまま、娘は小さく「うん」とうなずいた。
「わあ、ありがとう!ほく、さやちゃんのおててで運ばれるの、大好き。かわいくて優しいんだもん」
娘がにこっと笑ったのを確認し、私は先を続ける。
「でもあのね、ぼく、さっきみたいに投げられちゃうと、悲しいな。さやちゃん、もうぼくを投げないでくれる?」
「うん、わかった。……ごめんね」
「わあよかった、じゃあ決まり!さやちゃんおてて号、乗ってもいいですかー?えーっと、お席はどこかなー」
「ここ、ここ、ここでーす!」
にこにこしながら開いた娘の小さなてのひらに、私はスプーンをそっと置く。
「よおし、しゅっぱーつ!行き先は、さやちゃんのお口でお願いしまーす!」
「はーい!」
バナナヨーグルトをすくって、娘はたのしそうに口へ運んでゆく。
ああよかった、乗り越えた。
時計を見る。あと10分。
床に飛び散ったヨーグルトをざっと拭き、娘の水筒に麦茶をつめ、身支度をしに洗面台へ走る。
自分用に焼いたトーストは、トースターの中ですでに冷えているだろう。
朝ごはんは、結局食べ損ねてしまった。
* * * *
ベッドに横たわったまま、昨日のできごとを思い出す。
あれはたった一日前のことなのに、今朝はまるで違う場所にいると感じ、思わず微笑む。
天井で揺れる朝の光も小鳥のさえすりも、今朝はとても優しく私に届く。
* * * *
昨日は確かに目まぐるしかった。
娘が食べ終わるのを待っておむつを替え、慌ただしく玄関を出て、レインコートを着込んで自転車を走らせ保育園に娘を預け、顔も手も足も濡らしたまま電車に乗った。
職場についたときにはすでにくたくただったけれど、やるべき仕事は山積している。
頭を仕事モードに切り替えるため、私はまた目を閉じ、深呼吸をした。
産休と育休を合わせて1年間休んだ。
同じポジションに戻らせてもらえた時には心底ほっとしたし、感謝しかなかった。私はここで頑張りたいと、それが私の望みだと、心から思った。
それでも、産後の体はなかなか回復しなかった。それに加え娘は夜泣きするたちで、2歳になった今でも、夜は頻繁に起こされる。
まとまった睡眠が取れるのは3時間がいいところで、気づくとぼんやりすることが増え、私は仕事でミスを重ねるようになった。
自分のミスで仕事量は余計に増え、娘を寝かしつけたあと持ち帰った仕事を深夜までやるという悪循環の日々だ。
これではいけないと思うけれども、他にどうしたらいいのかわからないまま、時間だけが過ぎていく。
一心不乱に仕事をし、あと少しでお昼休憩、というタイミングでスマホが震えた。
嫌な予感に、心臓がぎゅっと縮まる。
どうか保育園からじゃありませんように。
祈るような気持ちでスマホを見ると、「しらゆき保育園」と画面に表示されていた。
通話ボタンを押したとたん、賑やかな音がスマホから溢れだす。子どもたちの声、明るい音楽、食器の触れあう音。
「あ、さやちゃんのお母さまのお電話でしょうか。しらゆき保育園の北川です。さやちゃん、お熱が出てしまって。ええ、37度8分です。お迎え、お願いできますでしょうか」
保育士の声を聞きながら、娘の熱がそれほど高くないことにほっとすると同時に、積み残す仕事を思って焦りがやってくる。保育園からの呼び出しは、今月に入ってこれで3度目だった。
電話を切り、頭の中でこれからの段取りを急いで組み立てる。
まずは上司に報告し、早退の許可を取る。午後の仕事の予定変更の電話を何本かかけ、どうしても今日中にやらなければならない仕事は同じ課の誰かに頼むしかない。
上司に事情を説明し早退許可を申し出ると、彼女の顔に失望の色が浮かんだ。
「また熱なの?子どもが小さいと大変ね。仕事の調整だけ、しっかり頼むわね」
「申し訳ありません」と頭を下げ、席に戻り午後の仕事の調整をする。
同じ課の後輩にも頭を下げ、今日中に処理してほしい仕事の資料を見せながら説明していると、ふとコーヒーのいい香りがした。
顔を上げると、同期入社の瑠璃と目が合った。柔らかい栗色の髪をゆるくまとめ、耳には揺れる小さなピアス。
淹れたばかりのコーヒーを手に持ち、「おつかれさま」とふわりと微笑む。
その瞬間、強烈な羨望が体を貫いた。
自分に手をかける余裕、コーヒーを飲む余裕。
健康管理も食事の準備も自分のぶんだけすればよく、夜はきっと手足を伸ばして眠れるのだろう。
そして、ああ、一人でいられる自由な時間。
娘のことはもちろん愛している。
望んで得た子どもだったし、妊娠していることがわかったときには世界中が輝いて見えた。
それでも、一人になれる時間がまったくないことに、ときどき叫び出したいほど息が詰まる。
いまこの瞬間自分が渇望して得られないもののすべてを、彼女が持っているような気がした。
「子どもがいないと自由でいいね」
気がつくと、ため息と共にその言葉が口から出ていた。
瑠璃は小さく息をのみ、ほんの一瞬かなしい顔をしたけれど、すぐにいつもの柔らかな笑顔を見せ、「そうだね」と言った。
私はたちまち後悔に襲われる。
瑠璃に子どもがいない理由を、私は知っているというのに。私の発した一言が、どれほど彼女を傷つけるかということも。
ごめんなさい、と小さく言うと、「ううんいいの、本当のことだもの」と瑠璃はあかるく笑い、気遣わしげに首を傾げ、「だいじょうぶ?」と表情だけで伝えてよこす。
「大丈夫。どうかしてるね、ほんとにごめん」
押し寄せる自己嫌悪をどうにか押しとどめ、私は無理やり笑顔をつくる。
自分の未熟さ加減にどれほど打ちのめされようと、いま落ち込んではだめなのだ。
落ち込めば足が止まって、いったん止まれば私はきっと、もう動き出せないだろうという気がした。今の私には、そんな時間も自由もありはしない。
深呼吸をして意識して口角を上げ、隣で身を固くしている後輩に「じゃあ、申し訳ないけれど後はお願いします」と笑顔を向ける。「あ、はい」と答える彼を尻目に私は帰り支度を始める。
彼の目に、私は無神経で強引な女として映っているだろう。無神経な言葉を同僚に投げつけ、後輩に強引な引継ぎをする女に。
職場を出て電車に乗り、再びレインコートを着込んで保育園へ自転車を走らせながら、頭を母親モードに切り替える。
娘を保育園からピックアップしたら、予定外の昼食の食材を買いにスーパーに寄らなくてはならない。発熱している娘を連れ歩きたくはないけれど、2歳の娘を家に一人で置いておくことはできないし、買い物のあいだ娘を見ていてもらえる人もいないのだから仕方がない。娘を連れて買い物をし、なんとか家に帰り着く。ほかに選択肢はないのだ。
小児科の午後の診察は15時からだから、それまでに食事をさせて、できれば少し昼寝もさせよう。娘が眠っているあいだに、持ち帰った仕事を少しやれるかもしれない。
保育園につくと、熱で頬を上気させた娘は保育士に抱かれ、にこにこと笑っていた。
ほっとすると同時に罪悪感がやってくる。
今朝娘の機嫌が悪かったのはきっと、体調が悪かったからなのだ。体の辛さをまだ言語化できない2歳児の、サインに気づけなかった私は母親失格だろうか。
そこまで考えて、ちがう、と思う。
ちがう、気づけなかったんじゃない。
私は本当は、娘の体調の悪さに気づいていた。だって、いつもとは違う機嫌の悪さだったのだから。
気づいていながら、みて見ぬふりをしたのだ、私は。何も問題はないと思いたくて、そう思い込んだ。仕事を休みたくないばかりに。
自己嫌悪と罪悪感で、吐き気がした。
「お母さん、おかえりなさい!さやちゃん、ママのお迎え、よかったねえ」
保育士は娘の状態を手短に報告し、付け加える。「さやちゃんは朝から少し具合が悪そうでした。登園前に体調の確認、必ずお願いしますね」
「ごめんなさい、本当にそのとおりね、気をつけます」
娘を抱きとり、「ごめんね」と娘にも謝る。首筋に押し当てられたおでこが熱い。
ごめんね、ともう一度、心の中で娘に謝る。
園を出て、自転車の後ろに乗せた娘の小さな体をブランケットでしっかり包み、雨除けカバーをかぶせる。
雨脚は一向に弱まらず、スーパーへと自転車を走らせる私の顔を容赦なく打った。
雨降りの平日のスーパーは空いていた。カートに娘とかごを乗せ、急ぎ足で店内を回る。
菓子売り場の前を通りかかったとき、娘が目を輝かせカートから降りようともがいた。グミ、チョコレート、色とりどりの玩具つきお菓子。
カートから落ちないよう、乗り出した娘の体を押し留めながら「また今度ね」と菓子売り場を素通りしようとしたとたん、娘が泣き声を上げた。
「あれがほしいの!」 娘の高く大きな声が、売り場に響く。
「うるせえなぁ」
舌打ちとともに聞こえたその声に、私ははっとする。見ると、杖をついた高齢の男性がこちらを睨んでいる。
「あんた親だろう?静かにさせておくこともできないなら、子どもをスーパーなんかに連れて来るんじゃないよ」
険のある声に、「あ、ごめんなさい」とつい反射的に謝った。
「周りの迷惑ってものを考えなさいよ、少しは。昔はもっと子どもに厳しくしたもんだ。そんなふうだから日本は悪くなるんだよ」
言い捨てて、男性はくるりと向きを変えて歩き去る。
不穏な声音に驚いて身をこわばらせた娘を抱きしめ、「なんでもないよ、大丈夫」と安心させながら、悔しさと情けなさがこみ上げた。
なあに、あれ。スーパーに子どもを連れてくるなって、じゃあどうしたらいいの。2歳児を、ひとりで家に置いておけっていうの?静かにさせておけなきゃ迷惑って、あなただって小さい頃はあったでしょう、きっと人前で泣いたでしょう?
頭の中で言葉が溢れ、頬が熱くなる。
謝りたくなんかなかったのに謝ってしまった自分にも、嫌気がさした。
ぼんやりしたままレジに並び会計を済ませ、エコバックに買ったものを詰めていく。
頭が重く、どうしようもないほど疲れを感じた。
早くしなくちゃと気が急くのに、気づくととりとめのない思考にからめとられ、手が止まり、周りの音がよく聞こえなくなる。
私は最近、謝ってばかりいる。
仕事をしていて、ごめんなさい。
子どもがいて、ごめんなさい。
余裕がなくて、ごめんなさい。
母親失格で、ごめんなさい。
職場にも子どもにも、保育園でもスーパーでも、いつもいつも、私は謝ってばかりだ。
私は自分が、誰にとっても中途半端で迷惑な存在だと感じる。
いっそ私がいなければ、誰にとってもいいのかもしれない。
そうだ、もしもこのまま消えてしまえたら、もう誰にも謝らなくていいのだ。
生きていてごめんなさいと、もう感じなくてもよくなる。
絶え間なくやってくる体の痛みも疲れも焦りも罪悪感も、もう何も感じなくていい。
それはなんてらくで安らかで、ほっとすることだろう。
このまま、このまま消えてしまえたら。
「あれ、葵さん?」
明るい声に、はっと我に返る。
振り向くと、百合さんが立っていた。娘の1歳児健診で知り合ったママ友の百合さん。にこにこと娘を見つめ「わあさやちゃんだ、久しぶり、大きくなったねえ」と言う。
私の顔に視線を移した彼女は、数秒間押し黙った。
「葵さん、大丈夫?」
うん大丈夫、と言おうとして、言葉より先に涙がこぼれた。止めようとすればするほど、涙はあとからあとから溢れ出す。
「あれ、大丈夫じゃなさそうだ」
呟いた彼女は、ちょっとごめんね、と言って私と娘のおでこに触る。
「ふたりとも、熱があるんじゃない?」
車で来てるから送ってく、自転車はあとで取りに来ればいいじゃない、そんな状態で雨のなか自転車漕いだら危ないよ、と言いながら手早く私のエコバックにカゴの中身を詰めた彼女は、涙の止まらない私ときょとんとする娘をスーパーから連れ出し、車にそっと押し込んだ。
家につくと、百合さんは「もしよかったら、お昼ご一緒してもいいかな」と言い、キッチンに立って温かいうどんを作ってくれた。
朝の食器が散乱したままのシンクのこともトースターに入りっぱなしのパンのことも畳まずに放り出された洗濯物のことも、彼女は何も言わなかった。
娘を交互に抱いてあやしながら、私たちはそのうどんを一緒に食べた。
ねぎとお豆腐のシンプルなうどんはおなかの底から体を温め、信じられないほど美味しかった。
誰かに作ってもらったものを食べるのは、いつぶりだろう。
食べながら、百合さんに促されるまま、ぽつりぽつりと話をした。
夜泣きでなかなか眠れないこと。
仕事が遅れることへの焦燥感と、娘への罪悪感。
自分で選んだ道なのに、ゲームオーバー寸前だと感じてしまう自分自身への失望。
疲れてへとへとなのに、やってもやってもなにもかも不十分だと感じること。
そして毎朝、目覚めて目を開けるのが絶望的に怖いこと。
話しながら食べながら、きりもなく涙が流れた。
自分で選んだ道なのだからと夫にも言えずにいたそれらの言葉を、彼女には言えた。
お互いのそれまでの人生をまるで知らない者同士、けれどもいまここで、同じものを食べて誰にも言えなかった胸の内を見せている、そのことの不思議を思った。
うどんを食べ終えたあと、「3時半にうちの子の幼稚園バスが帰ってくるから、それまでの間だけだけど」と言って、百合さんは私を眠らせてくれた。
娘をみていてもらえる安心感のなか眠りに落ち、起こされて目が覚めたときには、驚くほど心が軽くなっていた。
体はまだ熱を帯びて重かったけれど、頭にかかったもやが晴れ、これなら一人で娘を連れて病院に行ける、と思った。
心配そうに帰る百合さんに心から礼を言って見送ったあと、私は夫に、残業せずに早く帰ってきてくれるようメッセージを送った。
娘が熱を出したこと、私自身も具合が悪いこと、一人では夜が乗り切れないこと。
百合さんにSOSを受け止めてもらえたということが、私の中の何かを変えた。
私が周りに言うべきことは、「迷惑をかけてごめんなさい」ではなく、「助けてくれてありがとう」だ。そのことが、ふいにはっきりとわかった。
職場でも家でも保育園でも、私の言うべきことは、それだったのだ。
助けてほしいと声を上げ、差し伸べられた手を感謝とともに握ること。それは弱さではなく、むしろ強さなのかもしれない、と、ふと思う。
「助けてほしい」と言えない自分のままでいたのなら、きっと私は他の誰かのSOSも許せないだろう。スーパーで出会った男性のように、泣いている子どももその母親も、迷惑な存在だとしか思えなくなるだろう。自分自身に許せないことを、他人に許せるはずもないのだから。
あの男性ももしかしたら、誰にも助けてもらえないと思っている人なのかもしれない。
苦しいときには「助けて」と言える自分に私はなりたい。そして、助けを求める人に手を差し伸べられる自分でいたい。
「迷惑をかけるから」と苦しさを閉じ込めるのではなく、助けてほしいと周りの人に話してみよう。そして助けてもらえたならその時は、「ごめんなさい」ではなく「ありがとう」と言おう。
私は私の選んだ道を、謝罪ではなく感謝で彩っていくのだ。
* * * * *
柔らかな光が揺れる朝のベッドの中で、隣に眠る娘の頬にそっと触れてみる。
ふっくらした頬はひんやりとすべらかで、娘の熱が下がったことを知らせている。
昨日までの私は、崖にしがみついていた。
一人ぼっちだと思い込み、ここから落ちたら終わりだと、二度と這い上がれないのだと、思っていた。
でも、違った。
糸が切れるように力尽き落ちた先は、やさしい草地だった。
あたたかい風が吹き、光に満ちた草地。小鳥が鳴き交わし、花々がそっと揺れる柔らかな草地。
崖の下にはこれまでずっと、こんな場所が広がっていたのだ。
いつもの寝室のいつもの朝が、まったく違う色を帯びて目に映る。
それは私の心の中の景色が変わったからに違いなく、それはつまり、私の生きる場所が昨日までとは違う場所になったということなのだった。
今日職場についたら、瑠璃に昨日の言葉を謝ろう。
彼女の気持ちを傷つけてしまったことは消せないし、取り返しがつくとは思えない。それでも、私にできるすべてを持って謝ろう。
そして、正直にいまの自分の状況を伝えてみるのだ。大切な仕事仲間にひどい言葉を投げつけてしまうほど余裕を失っている、いまの自分自身のことを。
そのことを想像すると、少し体が震えた。自分をさらけ出すのは、いつだって怖い。
けれど百合さんにもらった思いがけない優しさが、作ってもらったうどんの温かさが、私を内から励ました。
大丈夫、この世界は嵐の吹きすさぶ一人ぼっちの崖っぷちじゃない。
花や小鳥のちいさな命も育んでいける、光の満ちる柔らかな草原だ。
私はここで、生きていていい。助けてと言っていい。
この世界への信頼を、私はきっと取り戻すことができるだろう。
すやすやと気持ちよさそうに眠る娘と夫を起こさないように、私はそっとベッドを降りる。
おはよう、私。
新しくなった自分に、私はそう呟いてみる。
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