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「おはよう、私」①(短編連作小説 & 音楽)第1話

【あらすじ】

  子どもの産めない瑠璃、「子どもがいないと自由でいいね」という言葉を瑠璃にぶつけてしまう葵、本当の自分を押し殺しながら生きる中学3年生の青磁。

 外からどう見えようと、人はみな何かを抱えている。
 それでも、今日もまた、ここから歩き出せる。

 立場の異なる3つの視点から描く再生の物語、全3話 & 音楽。

※この3つの物語は、1曲のピアノ曲から生まれました。
 そしてこの物語たちからまた、ピアノ曲に歌詞がつきました。

 3つの物語をつなぐ優しく素敵なピアノ曲は、4つめの記事で歌詞全文と共にフルバージョンでお聴きいただけます。

 小説と音楽が糸のように織り重なり、ひとつの作品となりました。
 どうぞ物語と音楽を、併せてお楽しみいただけますように。


第1話・瑠璃


 朝。
 遠く聞こえるアラームの音が意識をたたく。

 細く開いたカーテンの隙間から、細い光がこぼれている。
 ああよかった今日はいい天気なんだなと、ぼんやりした頭で反射的に考える。

 「よかった」と思ったのは仕事で人に会いに行く予定があるからで、晴れていれば移動がらくだからだ。雨ならば広がってしまう細いくせ毛も、今日はきっと大人しく、肩で揺れてくれるだろう。

 ほとんど無意識に、頭の中で手帳を開く。
 ベッドに横になったまま、今日の予定を確認していく。

 待ち合わせの時間と場所、今日の議題の目指すべき着地点。上司への報告事項、今日中に片付けるべきその他の案件。
 必要な書類は昨日までにすべて準備を終えてあるから、今朝は職場でコーヒーを飲む余裕があるだろう。

 ふいに、昨日同僚に言われた言葉を思い出す。

 普段から、コーヒーどころか昼食を食べる時間も惜しんで仕事をする彼女は昨日、保育園から子どもの発熱の知らせを受けて、大急ぎで仕事の引継ぎをしているところだった。

 コーヒーを片手に自分のデスクに戻ると、ふと彼女と目が合った。それで、「おつかれさま」と声をかけた。

 彼女の顔からすうっと表情が消え、ひと呼吸ぶんの沈黙があった。

 表情の戻らないまま、「子どもがいないと自由でいいね」と彼女は言った。言ったあと、小さくはっと息をのみ、「ごめんなさい」と呟いた。

 「子どもがいないと自由でいいね」。
 ため息混じりの、心底羨ましそうな声だった。

 あれは決して悪意ではなかった。
 好きなようにスケジュールを組める自由な時間。
 小さな子どもを育てながらフルタイムで働くいまの彼女にとってはきっと、それは喉から手が出るほど欲しいものに違いない。
 本心から出た言葉、そこに悪意はかけらもない。
 そしてでも、だからこそ、その言葉はなおさらまっすぐ胸を刺した。

 自由と孤独は背中合わせだ。
 わたしには好きなようにスケジュールを組む自由があり、彼女にはその自由を縛る愛おしい存在がある。

 ベッドに横たわったまま、目を閉じてゆっくり数回、深呼吸をする。
 それから、好きなものをひとつずつ、頭の中で思い描いていく。
 落ち込みそうになったときの、わたしのいつもの対処法。

 まっさきに思い描くのは、南の島の砂浜だ。
 夕暮れ時の淡い桃色の空、柔らかく光を含んだ南風と足指のあいだをさらさら流れる砂。
 誰かの笑い声、波の音、「怖れるものなど何もない」とささやくような美しい海。

 そうだ、今年の夏は休暇を取って海辺に行こう。軽くてよく風をはらむワンピース、ビーチサンダルと麦わら帽子。一人でもいいし、恋人を誘ってもいい。
 観光はしない。ただ海辺で、日がな一日心ゆくまで泳いだり眠ったりするのだ。

 子どものできない自分の体を、恥じたり恨んだり嘆いたりすることは、とうの昔に止めてしまった。
 わたしの人生も運命も、わたしのものだ。
 そこにどんな幸せを見出すかは、わたしが決める。

 胸に刺さった昨日の言葉は、いつの間にか小さく遠くなっている。
 ほんの少し残った痛みも、きっとじきに消えるだろう。

 今日は何かひとつ彼女の仕事を手伝えたらいいなと、ふと思いつく。
 そうだそれがいい、そして二人ぶんのコーヒーを淹れるのだ。美味しいチョコレートも一粒、脇に添えよう。
 特に話をしなくてもいい。ただ彼女とわたしがほんの少し、ほっとできる時間を作ってみよう。

 外からどんなふうに見えようと、わたしたちはきっと、みんな何かを抱えている。
 そのすべてを理解し合うことはできなくても、コーヒー1杯ぶんの時間、一緒に笑い合うことなら、きっとできる。

 目を開けてベッドを抜け出し、ゆっくり大きく息を吸い込む。

 おはよう、世界。
 昨日までがどんなふうでも、今日はまた新しい日。
 抱えるものは変わらなくても、抱えるわたしは変わっていける。

 これからも、落ち込むことはあるだろう。
 でもわたしは何度でも、そこからまた歩き出す。そして言うのだ。何度でも何度でも、繰り返し。

 おはよう、わたし。


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