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アモールとプシュケー〈5〉プシュケーの冥府下り



第5章 プシュケーの冥府下り



 冥府へと坂を下る間、プシュケーは様々な亡者に苦しめられた。彼らは生々しく立ち上がり、逃げ場もなく彼女を追い立てるのだった。
 初めに、生まれる間際に死んだおびただしい数の赤子の泣き声が弱々しく重なり、響いてきた。
 幼きうちに命を絶たれた子らが、小さな身体を持て余し、悲痛なまなざしですがりついてくるのを振りほどく。立ち止まったが最後、二度と歩き出せなくなるに違いなかった。
 そのあと、病に没した人々のそばも通った。戦で果てた者らに埋め尽くされた原もあった。
 それから、無実の罪で裁かれた人々が途方に暮れてさまよう間を通り抜けた。死に隠れるために自ら命を絶った人々の群もあった。
 片恋の生贄になった者、愛する者に裏切られくびれた人々もいた。

 そして、河のすぐ向こうで、三つがしらのケルベロスが、赤い眼を炎で光らせ、彼女を見て三つの喉笛を震わせて一斉に吠え哮るのも聞いた。その口から炎が吹き出し、火の粉が飛び散るのがはっきりと見えた。
 プシュケーは死んだように青ざめ、両手で耳を覆ってふらふらと駆けだした。
 前方に不意に立ちはだかる、恐怖に取り憑かれたいくつもの顔、そして無気力に、うつろな目でこちらを見つめる白い顔。これが、《老い》の姿なのだろうか──遠からず、この身を待ち受けているもの。

 そして、そのあとに見えたのは、アモールの姿だった。朝露に濡れた鮮やかな白い翼。だが、忌まわしい火傷の痕が、いまや輝かしいおもてをすっかり覆っていた。
 よく見ると、ぞっとするような青ざめた姿の背には、折れた翼が垂れ下がっていた。
 あの翼を折ったのはわたしなのだろうか──折れてしまえばいいと、ひそかに願ってはいなかったか。
 プシュケーはいつしか夢中で走っていた。
 何度もつまずき転びながら、どのくらい走っただろうか。いつの間にか周囲は静まり、亡霊も怪物も遠くかすんだようだった。



 走り込んだそこは、何もない大広間だった。灰色の虚無が満ち、ただ黒曜石や水晶が、洞窟にかかる星々のように、また神託のように、静かな光を放っていた。
 向こうに玉座がふたつ並んでおり、片方に人影が見えた。
 そのまま両手をついてしゃがみ込み、極度に怯え、がくがくと総身を震わせているプシュケーのほうへ、玉座から立ち上がった黒衣の女性が近づいてきた。

 繻子しゅす織りの艶やかなフードを背に下ろし、面差しを露わにした女王の額で、ティアラ黒蝶真珠ブラックパールが漆黒の髪にきらりと光った。
「ここ冥府に、陽光の香気がたつなんて、ずいぶん久しいことだわ」
 冥府の女王ペルセフォネーは、良く通る声でささやくように言った。
 冥府の女王とは、どれほど怖ろしげな様子をしているのか──心密かに怯えていたプシュケーは、驚いて女神の面を見つめた。髪の毛の代わりにのたうつ蛇を戴いていると伝える詩人さえいたのだ。

 あえかなる繊月せんげつの光を引き出して編んだ黒髪、夜の泉のごとくゆるやかに、白銀に輝く面輪おもわ。漆黒の瞳が蝕の月のようにきらめいて、プシュケーを射た。青ざめてはいたが、思慮深げな気品に満ちた容顔かんばせには、幽玄な美しさがあった。
 わずかに恐怖がゆるんだように思われ、プシュケーは膝をついたまま冥府の女王を見つめた。
「愛の神に連なる方ですのね」
 プシュケーは、しばしためらったあと、こうべを垂れてうなずいた。もはやつまらぬ人間の身でしかないことを噛みしめる。わたしは、いずれあのさまよえる人々のようになるのだから。
 プシュケーは、うやうやしく視線を下げたまま、声の震えを努めて抑えつつ述べた。
「すべての者を迎え入れる御主おんあるじの妃にして最もかしこき女神ペルセフォネー様──あなたさまにお願いがあってまかり越しました。わたくしはアフロディーテ様の御子みこ、クピード様の貴きお顔に火傷を負わせてしまった端女はしためにございます。キュテーラの女神アフロディーテ様のお怒りに触れ──」
「待って」
 ペルセフォネーは、鋭く遮った。しなやかに膝をつき、プシュケーを覗き込む。
「あなたはそのような者には見えないわ。あなたの額には愛の星が輝いている。それはまぎれもなくクピードのしるしよ。──望むものがなんなのか、わたくしに読ませて。人間はとかく惑い、取り繕うものだから」
 プシュケーの額に、熱を測るように手のひらをあて、これまでの経緯を思い浮かべるよう促した。
 冥府の王と妃には、なにひとつ隠し立てできるものではない──炯眼けいがんのもとに全ての所業がつまびらかにされ、正当なる裁きが下るのだ──詩人らの語る通りだと悟りつつ、プシュケーは瞳を閉じた。ひんやりした手のひらは、不思議に優しかった。

 これまでの身の上、アモールへの疑念を抑えられなかったことに対する懺悔ざんげ、愛するひとの頬の傷痕を消したいこと、彼が幸せで満たされ軽やかに光り輝いていてほしいこと、などを心に述べた。
 けれど、どうしても、良人おっとと過ごした夜々が胸をよぎるのを抑えられなかった。優しく忍び込む指先に導かれた常夜とこよは、暗闇そのものに愛されているようで、身体の奥に閃くだけでも疼くように心地がいいのだった。刹那、どこか遠い山すそに仄々ほのぼのと燃え立つ野火のびを見ていた。
 ペルセフォネーが、静かに手のひらを離し、ふっと遠くを見た。プシュケーは我に返り、いっそううつむけた首筋までも朱に染めた。
「──ではあなたもやはり、わが良人おっと、冥府の王に懸想けそうしておられましたのね…」
「冥府の王…?」
 ペルセフォネーはうっすらと微笑んで続けた。
「生けるものはすべてそうですわ…わたくしも良人に懸想していますのよ…だからこそわたくしは、ここにいても幸せなのです。冷たくがらんどうで何もないところとしてあなたの眼には映るでしょうけれど、そうではないのよ。それに──」
 目を伏せた女王の唇に、つややかな月光がともった。
「──あのひとのそばにいると、安らぐのですわ…峻厳なひとだけれど──ヒュプノスの深い眠りのように」
 限りない慕わしさをこめたその声に、プシュケーの心がふるえた。
「わたしも…そうでした。でもいまは、砂がこぼれていくみたいに、とめられないの…」

 長い下り坂の途中、滝のようにさらさらとこぼれ落ちる砂の前で、ただ立ちつくしている幾人いくたりもの人の姿があった。あれは、片恋の生贄になったひとたちの谷だった。
「──あの長い坂を埋め尽くしていた者たちは、最後には苦悩を燃やし尽くして浄化され、なにもかも忘れ手放して、穏やかにこの広間にやってくる。わたくしは、安かれと祈りながら、ここで待っているの。それがわたくしの務めなのよ。──けれど眩しいわね…心から慕いあって…愛の神の、愛ですもの。そのひとそのものを与えられ、受けるようなものですわ──」
「ペルセフォネー様、わたくしは年老いて死んでいく身です。わたしとあの方のつながりは、恋の矢によるかりそめのもの」
「あら、見たところ、もうあなたの心臓にはどのような矢の影もありませんわ。つまりはあなたのアモールにもね」
 ペルセフォネーは、プシュケーをしばしその場に残したまま、いずこへか姿を消した。

 その間、プシュケーは立ち上がり、天空ほどに遠くさえ見える天井を見上げ、星の瞬きを数え、たどっていった。川面にたつ霧のような星雲もあった。
 気づけば、大広間と見えたそこは、夜の果てしない野原のように、どこまでも限りがなかった。
 天空も、冥府の空も、九日間落下し続けてようやく地表に着くほどの高さにあると、書物で読んだことがある。見上げれば、吸い込まれるような遠い果てだった。
 ほどなく戻ってきたペルセフォネーは、手のひらに黄金の小箱をのせていた。
「さあ、この箱に、小さなびんを入れておいたわ。その中の薬をあなたのいいひとに塗っておやりなさい。ほんのひとしずくか、何滴かで充分だから。──愛の神やその妻が美しくる必要は、必ずしもないけれど、それではあの気位の高いアフロディーテがお許しになりませんものね」
「ペルセフォネーさま…」
 言葉にならず、プシュケーは、再びひざまずいて黄金の小箱をしっかりと両の手のひらに包むと、深い安堵とともにこうべを垂れた。

 この上は、暇乞いとまごいをすべきなのは分かっていたが、どうしても立ち上がれなかった。
「わたし…ここにいてはいけませんか…?」
 ペルセフォネーは、首をかしげてプシュケーを見つめた。
「さあ…どうかしらね。そんなことをしたら、わたくしが恨まれてしまうわ」
 ふっと唇をゆるめると、ペルセフォネーは虚空を見上げた。
「あなたには、この冥府の空が、何色に見える?」
「灰色に…静かで寂しい灰色に見えます」
「──そうね、生き身のものにはそう見えてしまうのよ…だから、まだあなたはここにいるべきひとではないわ。──なにか重荷があるのなら、ここで降ろしていくといい。聞かせてくださるかしら」
 冥府の女王の澄んだまなざしが心の奥に、静かに沁みこんでくるのを感じる。
 そのまなざしに照らされているうちに、静けさが広がり、プシュケーはふと、最前さいぜんからあたりが無音であったことに気づいた。

 ここ冥府にあっては、生きる上でのわずらいはすべて些末さまつな、遠い時代のことのようでもある。
 プシュケーは、しばしためらったあと、そっと頭をふってつぶやいた。
「人間でないことはなんとなくわかっていたけれど…。神さまだなんてぜんぜん思い至らなかっただけでも、途方もない不敬だもの…その上、何から何まで、してはいけないことばかり──故郷の花や散歩道や…そんなつまらない話ばかりしてしまったし、皆が心を込めて捧げた供物に気安くさわって、自分のものみたいに髪に飾ったり…」
 本来なら、飛びすさってひれ伏し、崇めなければならない遠い存在だった。けれど、そのひとは同時に、溶け合うほど近くで夜ごと彼女を愛し、包み込んでくれたアモールであるはずなのだ。それを思うとき、ふたつながらにかれさまよう身の置き所のなさに、ひどく混乱するのだった。

 ペルセフォネーの謎めいた黒い瞳は、今は心からの同情をたたえている。それに引き寄せられ、プシュケーはひっそりと涙をぬぐった。
「ペルセフォネーさま…わたし、これまで生きてきて、ずっと思っていたのです。──世の中には貧しいひとや悲しみのうちにあるひとなど…足りなくて困っているひとがたくさんいるのに、わたしは満たされた暮らしをしてきました。どなたかと自分を比べるたびに、いたたまれなくて…持っているものをすべて皆に差し出すべきなのでは、と…でも、皆に行き渡るほどは持っていないし──それに、だれかの哀しみや不幸せを身代わりに背負うこともできないのです──だから、せめて、身ひとつになって…わたしの一番ささやかな幸せまでも、手放さなければならないのではないかって──世界中で一番不幸で惨めな者になれば、この気持ちも癒えるのでしょうけれど、そんな勇気もないのです──わたし、あの坂で…かわいそうなあの子たちといっしょに、ずっと泣いていたかった……」
 プシュケーは、想いのあふれるまま、そっとペルセフォネーを見上げた。誰にも取り合ってもらえぬであろうからと、打ち明けられずにきたやり場のなさ。この荘厳で哀しげな女神になら、受け止めてもらえそうに思えたのだ。

 黒髪の女神は、憂わしげな面差しで、ただ黙ってこちらを見守っていた。聞いているわ、と、静かな瞳が告げていた。
「──それにわたし、あのひとのことは好きだけど、このひとはそうでもない…そんなふうに区別してしまう自分の心が好きになれなくて…みんなのことを同じように好きになれたらいいのにって──だから、いつか見知らぬ方に嫁ぐ身であっても、その方を尊敬して心を尽くして向き合おうと思っていたのです…その方のことを好きかどうかとは関わりなく…きっとそれが、いちばんいことのはずだから…もしかしたら、好きになれない方と誠実に過ごす生き方の方が、立派なのかもしれない、とも…でも、そう思うと苦しくなって…なにが好きなのか、本当に好きなのかも、よくわからなくなってしまったのです──」
 侍女や身の回りの警護の者、父や母や兄姉たち。遠くから彼女に好意を寄せてくれているらしい同年代の若者たち。それぞれ優しく親切に、愛情をもって接してくれているというのに。ひとりひとりにどう報いればよいのかわからず、いつもどこか戸惑ってしまうのが常だった。
「──あの日、アモールが急にやってきて、ふっと…何もかもが慕わしくて、他のだれもぜんぜん比べものにならなくて…たったひとりの、かけがえのないひととしていつの間にか心が選んでしまったから……でも、好きだから愛するなんて、身勝手な、いけないことではないでしょうか…」
 ペルセフォネーは優しげにかぶりを振ったのみで、何も言わない様子だった。

「それに…アモールにはわからなかったのかもしれないけれど…神様と愛し合うなんて、してはいけないことだったの」
「…プシュケー、これだけは言わせて──人間の中には、そのような禁忌タブーを定めている者もいるようだけれど、祝福と見なす人々も大勢いるのよ……少なくとも、神としとねをともにしたからといって、直ちに不幸に見舞われるというようなことはないわ。そのようなことなら、クピードがあなたに触れるはずがないでしょう?」
 プシュケーは、ほっそりした身体をみずから抱きしめて身を震わせた。さして女らしくもないこの身体を、あの優美なる肢体をもつ神はどう思っていただろうか。

 ややあって、プシュケーは口を開いた。けれどその声はひどくのろのろとしており、いくら励ましても途切れがちにしか出ようとはしないのだった。
「不幸……けれど、わたしはいま、幸せなのでしょうか…何か悪いことが起きたほうがいいと思うのです──身を滅ぼせ…滅ぼせ…って、そんな声が聞こえる気がして…たぶん、あのとき…服が破れているのを見たときから…」
 唇の震えを止めようと、プシュケーは一度唇を引き結んだ。握りあわせた指が白く浮くほどに強く、力が入っていることにも気づかないまま。
「もう、居ても立ってもいられないの──アモールがわたしにふれたことで、彼の身体も心も気高さも、なにもかも穢れてしまったように思えて…あんなに光り輝いているのに…わたしはこんなに…みすぼらしくて──頬にやけどの痕まで残してしまって……こんなこと、あってはいけなかったの…神さまはみんなのものなのに、それを…欲しがるなんて…」
 民たちの訴えを聞き、人々のもつれをほどき、善慮を尽くして国を治めている両親のことを、ふと思い出す。
 心清らかに分け隔てなく公正に生きるのが王女の務めだと、両親の姿を見ながらそんなふうに考えるようになっていた。
 そのように生きるはずだったのだ。

 こらえていても、涙がひとりでに溢れてくる。
 ほとんど己に刃を突き立てる思いで、プシュケーは言葉を絞り出した。
「──心から大切に思ってくれているのがわかるから、ほんとうにわたし…くるしいの──こんなの間違っていると思うの……恋の矢を誤ったにしても、こんな人間の女に…引っかかったりして、神様からしたら…恥辱みたいなものでしょう? ──あの方にはだれか、天にも地にも恥じないような、立派な女神様と…」
 どんな苦しみも、その胸に抱き留めて鎮めてくれる、そのアモールがいないのだ。こんなに苦しいときに限って。
「かわいそうなひと。ほんとうはそのようなことはないと分かっていても、受け入れられないのね。きっと彼も思っているわ…あなたに刻印を押してしまったと。──結局のところ、おもいの矢に行き着くのね…わたくしもかつて、その矢でハデスと結ばれたのだから、よくわかるわ。ほんとうの愛ではない、と思ってしまう……その氷は、ふたりで溶かすしかないのよ…」
 ペルセフォネーは、遠く、己自身に言い聞かせるようにつぶやいた。

 こよなく美しいその姿に胸を衝かれ、プシュケーは身の程も忘れて言った。
「愛していらっしゃるのですね…きっと、心の寛い、正しいお方なのでしょうね…万物に等しく訪れる死を司るお方…わたくしども人間に、死者を弔い埋葬することをお示しくださった《人々の導き手》ですもの…」
 人々の間でも冥府の王について語られることはほとんどなく、さらには畏怖に基づいた風説がほとんどだった。その中で、慎重に選んだ言葉だった。
 これほどの女神ひとが慕う神ならば、すぐれたひとに違いなかった。
「そうね…とても正しいひとだわ──誰ひとり不当に扱わない代わりに、特別に慈しんだりもしない、公正なひとだわ…」
「ペルセフォネーさま。…出すぎたことかもしれませんが、それこそが、わたしの理想の生き方でした。──生まれ落ちた世がどれほど不誠実で不公平であっても、最後には等しく死を迎える…そう思えばこそ、わたくしどもは生き抜いていくことができるのです。ですから、冥府の御君おんきみは、私どもの慰めでもあるのです」
 冥府の女王はプシュケーを見つめ、瞳をなごませて儚げに微笑んだ。
「──クピードがなぜあなたに魅かれるのか、わかる気がしてきたわ──わたくしがハデスに魅かれるのと、どこか似ているのかもしれないわね…」

 それからペルセフォネーは、声の調子を変え、思い切るように言った。
「帰る前に、何か疲れを癒やすもてなしをして差し上げたいけれど、冥府のものを口にしたが最後、二度と地上に戻ることはできないのよ──それとも、何か口にしてみる?」
 ペルセフォネーは、じっと、量るように、見定めるように、プシュケーを見つめた。
 プシュケーはその眼を避けてうつむいた。それから、泣き出しそうなのをこらえて、ペルセフォネーを見上げた。
 ペルセフォネーは、神々のはざまに否応なく投げ込まれて混乱し、途方に暮れている乙女が、気の毒でならなかった。
「もしも…あまりに苦しいようなら、《忘却の川レテ》の水を浴びてもいいのよ…わたくしたち不死の者のうちにさえ、それを望むひともいるほどですもの──もちろん、嬰児みどりごのごとくすべての記憶を失ってしまうけれど…」
 うなだれて何も答えられないでいる乙女から視線を外し、冥府の女王は長い坂のある方を見やった。
「わたくしには人間の感じ方はわからないのだけれど…人間ひと人間ひととの恋であっても心が張り裂けてしまう者もいるわ…神と愛し合うというのは、受けとめ得ようのないほど…大きなものなのかもしれないわね…水で割る前の葡萄酒を詰めすぎて裂けてしまう皮袋みたいに。けれどプシュケー、あなたは今、こわれてもいないし、それにあなたの瞳は限りなく澄んでいるわ──」

「後悔は…していません」
 つぶやいたプシュケーは、その言葉が心のごく深いところから湧き出てきたことに、自分自身、驚くのだった。
 つなぎ止められてしまったのだ、と、知る。離れる決意をしたはずなのに。
 アモールなどというひとはどこにもいなくて、本当は愛の神なのだとしても──それでも彼は依然としてアモールなのだ。ともに生きていくことはできないとしても。
 アモールに、会いたい──もう一度だけでも。
 一目見て、この薬を渡して、それから──立ち去る決意がつかなければ、キュテーラの女神アフロディーテに知られるように振る舞って、罰を受け、身の始末をつける。
「──冥府の食べものは、いただきません。レテの水も……わたし、こんなに苦しいのに、なにひとつ忘れたくないの…地上に、帰ります」
 涙がこぼれないように、眼を閉じる。
 地上の命ならばどのようなひととでも、心の限りを尽くして愛し合うつもりでいた。けれど、相手の命のありようが、こんなにもかけ離れていては、いかなる努力を払っても、共に生き切ることは叶わない。
「アモールが神様なんかじゃなくて、人間ならよかったのに…いっしょに歳を取っていけたらよかったのに──わたし、透明になって……魂だけになって、ずっとアモールを見つめていられたらいいのに」
 ペルセフォネーは、静かに笑った。星を瞬かせ、鎮める摂理そのもののように。

「──さあ、行きなさい。地上ではもうずいぶん日がたったわ。冥府ここの時の流れは遅いのよ。それに、もうじきに良人が地上うえから帰ってくる頃よ。あなたはあのひとに会わないほうがいいわ。女に限らず、生きている者はみな誰しも彼に魅かれ、囚われるものよ…まして、あなたはその鋭い直感で、愛の神の中にも死の天使を見るようなひとだから」
 プシュケーは、目の前の聡い女王のなかに眠る金剛石ダイヤモンドのような悲しみの種を、どうにかしてゆるめてあげたいと思っていた。けれど、高みにいる女神が常に自身に課している克己の正体がなんなのか、見当もつかないでいた。
「ペルセフォネーさま」
 プシュケーはささやいた。
「なにか、わたしにできることはありませんか? これをいただいたお礼を差し上げたいのです」
 冥府の女王は、月の蕾のような唇を開いた。
「その言葉だけで充分よ。プシュケー、言っておくわ。その薬は人間には強すぎる。神の身体を癒すほどの作用は、人間には毒でしかないのよ。たとえわずかであっても、決して口にしてはだめ。──さあ、行きなさい。愛することは生きることそのものなのよ。始まったばかりのあなたの愛を、存分に生き抜いてきて。その瞬間・・を生きるのに、それが永遠に続くかどうかなんて関係のないことよ。たとえ彼のもとを離れることになっても、ほんとうの愛は死なないわ」
 まっすぐにプシュケーを見つめて語り終えたペルセフォネーは、手を添えて乙女を立ち上がらせると、両腕で軽く抱きしめた。

 目の前に走り込んできたときの乙女は、一日じゅう風に揺り煽られた嵐の日の蝶のようだった。額に手を当てたとき、その翅がかすかな音を立てるのを聞いた気さえした。けれどいま、幼げな乙女は見たとおりの人間の娘だった。まだ成熟しきらない肢体は、華奢というよりふわふわとした綿毛のようで、けれど春風のように確かに息づいていた。
「ひとの身体って、こんなにあたたかかったのね…忘れていた気がするわ──プシュケー、わたくしの友となってね──今日の日のことを、なつかしく語り合いたいわ」
 ペルセフォネーに肘を支えられ、プシュケーが歩を進めようと前を向くと、そこは初めに見た大広間に過ぎなかった。上を見上げても、星空の高みは失せ、静かな昏い天井があるだけだった。

 ペルセフォネーは、広間の出口までプシュケーを導くと、またフードを深く傾け、玉座へと戻っていった。その姿が遠ざかるにつれ、静かなざわめきが息をひそめていく。その場を暗く言祝ことほいでいた大気が、ふと凪いで無へとほどけていったかのように思われた。



 大広間から出て、ただ暗い灰色が穏やかに空間を満たす中を歩く。帰り道は、静かだった。冥府より出るものはいないためだろう。
 ふと目の端を、白いものがしずかによぎった。
 ゆったりとした白い衣に身をつつんだ背の高いひとが、向こうの方へと歩んでいた。
 夜の髄を引き出した艶やかな黒髪がたなびき、一瞬、顔が見えた気がして、プシュケーは立ち止まる。
 今のは、あの白い神殿でいつも自分を抱き止めた、死の天使の眼ではなかったか。
 翼こそないものの、瞳は同じ、凍星いてぼしの硬質な輝きを宿していた。

 その時、その白い影から声が聞こえた。
「ほんとうの冥府の空は、青く透けるニュクスの色なのだ──」
 その深い声は風となり、ふっとプシュケーを取り巻いてから、素早く抜けていった。
 ──未だ死なぬ者の中で、それを解するのは我が妃のみ──
 そのプネウマが、ペルセフォネーの元に戻っていくのだろうと、プシュケーは安堵の息をつきつつ、かすかな痛みを覚えたのだった。




⇒〈6〉愛のゆくえ


[frontispiece]Evariste Vital Luminais: Psyché (1886)


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星の汀 / ほしのみぎわ
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