小礼拝堂にて|聖書の訳書について
先月の聖書を読む会、参加者が私一人だったので、以前から気になっていた日本語訳聖書の種類について伺ってみました。
原典(新約はギリシャ語、旧約はヘブライ語)に忠実な訳。
意訳して宗派の価値観により適合させた訳。
信仰とは離れた立場の学術研究者の訳。
日雇い労働者の町で路上生活をしている人々を支援する神父さんによる、身近な言葉遣いの訳。(このように、ひとりで訳しているものは、"個人訳"というくくりで呼ばれるそうです)
いろんな考え方から、様々な訳がつくられているようです。
牧師さまは、気になる箇所について、5、6冊の訳を読み比べなさるそうです。日本語は、名詞の単複や主語が曖昧なため、ギリシャ語/ヘブライ語→英語よりもいっそう、訳し方に幅があり、複数読み比べてはっきりすることも多いそうです。
私は聖書通でもなんでもないのですが(クリスチャンでもないですし)、国語辞典の比較の時に引き比べる単語がみなさまそれぞれおありのように、旧約なら創世記、新約ならヨハネ福音書、それぞれの冒頭を読み比べることにしています。どちらも神話っぽいので。
この時も、半ば私のリクエスト状態となり、ヨハネ福音書の冒頭をいくつか読み比べしました。
ギリシャ語の「ロゴス」λόγος(logos)の訳し方にみなさま苦労されるそう。もともとは「言葉」「理性」といった意味ですが、特別に意味深い使われ方をしているため、「言」にルビをつけた「言」だったり、「ことぱ」、「ロゴス」、意訳して「この方」だったりと、様々でした。なお、「この方」というのは、原典のλόγοςが最終的にはキリストを指すので、そこを明示する意図だとのこと。
数千年前〜紀元1世紀ごろの書物を、写本によって語りつぎ、みんなで頭を悩ませつつ、調べ尽くして翻訳して伝播させる。信者でない私でも、その心意気、その愛情に打たれるわけです。
だから、《ホメロス風諸神賛歌》や《転身物語》、《神曲》など―いちおう挙げるなら《ニーベルングの歌》など叙事詩も―を読むのがちょっと好きなように、中身や主題以上に、かけられてきた手間や気配りを愛おしく思うのです。昔話なども、そうですね。
たぶん、誰かが心から大切にしてきたものは、その人の思いの分だけ深まり、美しくなるはず。たとえ、それが不完全で、現代の価値観と相容れない部分があったとしても。その、いにしえから数知れぬ人々が繰り返し培ってきたものを、愛おしく思わないはずがありません。
その行為を祈りと呼びたいし、その筆頭が《聖書》なのだと思うのです。
個人的には、文語訳の聖書を覗いてみたい...伺ったところ、日本聖書協会の文語訳を勧めて下さいました。
教会でも、ある年代以上の方々は、「やっぱり文語訳が趣深くて好き」とおっしゃるそうです。
たしかに、唱えるにも憶えるにも、文語はリズムが良く、頭に入りやすいです。
私が文語というものの美しさ、のちに合理的な機能性、に触れたきっかけは、中学高校で憶えさせられた讃美歌所収の「交読文」でした。
その話をしたところ、「詩篇の23篇でしょう」と讃美歌を持ってこられました。
「はい、これです! これをひとりずつ立って暗唱させられました」
「一番有名な詩篇です。牧師の娘さんに《汀さん》がわりと多いのですが、ここから引いているんですよ」
「...そうなんですね...! 汀さん...素敵な名前ですものね」
いつの間にやら、自分の名前をほめる局面に...(もちろん、私がnoteでこの名前を名乗っていることは牧師さまはご存知ありません。)
《星の汀》の名前は、天の川のほとり、というイメージで決めた名前。柿本人麻呂の和歌から出ていますので、文化違いもいいところ、です。
でも、そこで《渚》などではなく《汀》の字を選んだとき、深層の記憶にこの詩篇があったのかも...?
思わぬ所で自分のルーツに再会した気のした一日でした。
※タイトル画像はtomertu様@stock.foto