アモールとプシュケー〈終〉果てなき愛のみもとに
第10章 果てなき愛の御許に
神々の宴は終わり、夜が来た。
地底では月が、高い峰の上では春が、それぞれの安らぎとともに眠りにつこうとしていた。
「ねえ…」
どこか思案げに、プシュケーはつぶやいた。
彼女は、アモールの腕を枕に、美しい栗色の頭を預け、無意識にアモールの肌に指を伝わせていた。
さらりとすべらかな肌は、汗の艶を忍ばせていっそう香り高く、吸い付くようになめらかだった。
プシュケーは、こうしてふたり結ばれていることがまだ信じられない胸のひそかな鼓動に押されつつ、幼い少女が空の果てしなさに戸惑う心地で、アモールのあたたかな確かさをぎゅっと抱いていた。
あの日、黄金の箱を持ってゼフュロスが立ち去り、ふたりきりになったとき、アモールはためらいがちにこう言ったのだった。──きみが望まないなら、きみにふれたりはしない…だけど、きみの傷にふれさせてもらえないだろうか…もし、あまり痛まないところがあるなら──と。
プシュケーが、すりむいた手を開いて差し出すと、そこに走る幾筋もの紅い傷をしばらく見つめたアモールは、羽のようにやわらかな指先で、その色にふれた。
それから、己の指先をじっと見つめたあと、手のひらごと静かに握り、もう一方の手のひらで祈るように押し包んで胸に当てた。
──これから私たちがどうなっていくにせよ、この傷のことは忘れないでおきたいんだ…ずいぶん怖ろしい思いもしただろう…私にはきみの記憶を消すようなことはできない。でも、一日も早く薄らぐよう、すべて、私に預けたと思ってほしい。君の代わりに、私が憶えておくつもりでいるから──。
それはつまり、アモールの頬にふれ、口づけるたびに、自分の頬の同じ箇所に痛みを感じ続けるということと同じだった。
プシュケーは、アンブロシアによってきれいに癒えた手のひらを差し伸べ、おそるおそるアモールの頬にふれた。目には見えずとも、奥底ではまだ赤く腫れ、疼いているのかもしれないと思われたのだ。
それはまた、愛し合いながらも信じ合えてはいなかった疼きの、遠いなごりでもあった。
「プシュケー…大丈夫だ。もう治ったよ」
アモールは、目を閉じたまま、痛みをなつかしむようにつぶやいた。
それでもなお残るかすかな哀しみのまま、プシュケーは静かに口を開いた。
「アモール…わたし、あの坂の人々のことを、忘れてはいけないと思うの。だれもが忘れてしまっても、わたしだけは…だって、わたしもあそこへ行くはずだったのだもの」
アモールは優しく頭を振った。
「それはペルセフォネーの仕事だ。きみに務めがあるとすれば、愛の神の妻でいること、それだけだ」
プシュケーは、敢えて言葉には出さぬまま首をそっと横に振った。ひとつだけでいいから、あの時の傷が残ったままであればよかったのに。
「──でも…すべてのひとが幸せにならない限り、わたしも本当にはしあわせになれないのだもの」
「すべてのひと、か……私も、忙しくなりそうだ」
アモールは、腕の中にいる妻の顔を覗き込んで、ほほえんだ。
胸がつんと痛くなり、プシュケーは良人をぎゅっと抱きしめた。
「そう言ってもらえるだけで、うれしい…」
「言葉だけのことではないんだ」
そっと呟く。アモールは、両腕の慈しみを妻に伝えようと、しばらく言葉もなしにプシュケーをただ抱いていた。
「──今日も、《天女のおはなし》を聞きたいの?」
頷きかけたプシュケーは、ふと考え込む。
「そうね──あのおはなしはたぶんもういらないわ…」
「そう…やっと、哀しくならずに済むようになったのに」
「──そういえば、わたしあの頃、あなたとの恋が終わる日のための、練習をしていたのかしら…急に、そんな気がしてきたわ…」
「もちろん、そのつもりなのはわかっていたよ──きみは素直すぎて時にひどく残酷だったから」
「あら、そんなふうに思われていたなんて」
ほほえんで、そっと唇を寄せると、プシュケーは静かに起き上がった。アモールがその姿を追って目を開ける。乙女は良人を見つめ、それから遠くに視線をさまよわせた。
「終わらない愛なんてないと思っていたわ…最後には死が何もかも取り上げてしまうのだもの」
「──そうして置いていかれる運命にあったのは常に私だったから…しかも、なんだかきみは、繰り返し羽衣をまとって、女神になる準備をしているかのようで、なおさらいたたまれなかったんだ…」
「あなたに出会うために、あなたを置き去りにしていたのね…毎晩、毎晩」
アモールの夢見るような茶色の瞳に、室内の穏やかな灯りが照り映えている。手の届くところまで降りてきた夕星にしばらく魅入られていた乙女は、ふと自分の姿に思い至り、うすやわらかな掛けものを引っ張って、恥じらいを含んで胸もとにかき寄せた。
いつも暗がりの中で愛し合っていたので、優しい灯りであっても、互いの姿が鮮やかに浮き立って気恥ずかしいのだった。
せめて、成熟した女性の身体になっていたらよかった、と思う。
くすりと笑んだ魅惑的な瞳にじっと見つめられ、プシュケーはどうしたらよいのか分からず、どぎまぎしながら小さな声で言った。
「前から時々気になっていて…アモールには効かないというのは聞いたけれど…わたしに使った恋の矢は、どういう効き目のものだったのかしらって」
アモールは横になったまま、なぜかくすぐったそうな顔をした。
「それはもちろん、一番効き目の強い矢だったよ」
「そう…」
プシュケーが、納得したような面持ちになりつつも首をかしげたので、アモールも首をかしげてみせた。
「──いいえ、なんでもないのよ。ただ、初めてあなたがわたしのところに来た夜、どなたともわからなかったのにわたし…応じてしまって──一番効き目が強い矢なら、仕方ないかしら…と思ったの」
プシュケーは、頬を染めながら良人から目をそらした。
アモールは、いたずらっぽく、妻の言葉を引き取った。
「そうだね。誰ひとり、恋の矢に抗しきれるものではないからね──ただし、私に効かなかったようだから、たぶんきみにも効果はなかったのだと思うよ」
くっくっと笑って、アモールはプシュケーをつついた。
「うれしかったよ、きみが同じ気持ちで」
プシュケーは、いっそう赤くなった。
「──だって…初めてのことだったから、本当の意味でそれが何なのか分かっていなかったんだもの。今ならきっと拒むと思うわ」
「それは困るな」
そう言ってみせてから、アモールは考えつつ続ける。
「──だが私も初めてだったから、どうしていいのか分からなかった…ただ、きみのそばに行きたくて、そしてもっと、どこまでも近づきたかったのだと思う」
甘くほほえんだアモールは、プシュケーの胸もとのかけ布を引き抜きざま、ゆらめいた身体を引き寄せて胸に抱き留めた。
「きみのからだだから、きみの身体が好きだ。きみの身体の持つあらゆる形、あらゆる手ざわり、あらゆる香りが好きだ」
「わたしも──」
プシュケーは、消え入りそうな声で応じた。それから思い直して声を励まし、アモールの言葉を繰り返した。ひとつひとつ、恥ずかしそうに、そして丁寧に、やがてはうっとりと口ずさむように。
「──そして、あなたの身体のあらゆる音も好き。あなたの身体の光と影も」
アモールは、喜ばしげに、プシュケーの言葉を繰り返した。
「──本当のことを言うと、今日は、初めてきみと過ごした夜みたいに、寄り添うだけにしようかと思っていたんだ。日を追って、順番に、くり返したい気がして…」
「それなら、今からそうすることにすればいいわ。さっきのは、なかったことにして」
腕の中で、プシュケーは少し笑った。見つめ合うよりも、こうして抱き合っているほうが気恥ずかしくない自分が、不意におかしく思えたのだ。
「──なかったことにするのなら、もう一度はじめから、あの日々を一晩でなぞる方がいいな。だって、どのみち時を戻すことはできないのだから…そう思うと、もうきみとの時間を惜しむ必要はないのに、なぜだかいっそう惜しい気がする」
プシュケーは不意に泣きそうになり、良人の胸にすがった。
「だったら、あなたのかげでわたしを光から隠して…あのやさしい闇に、もういちどかえりたい…なんのつとめもなく、わたし自身でさえなくてもよかった、あのころに──」
先刻の情熱の残り香が不意に沸き立つ思いは、めまいにも似ていた。
「きみが月なら、満ちていく月だ」
アモールはそのまま己ごと身を反転させ、プシュケーを仰向けにすると、覆い被さって脚をからめた。身動きを封じてから、思うさま唇を奪い、心ゆくまでゆっくりと味わう。栗色の髪、蜜の川に、プシュケーもろとも沈み込んでしまおうとするかのように。
唇を浮かせ、熱っぽくささやく。
「だけど、ほんとうの愛を知っているのはきみなのだから、それを私に教えてくれなくてはね──」
言いも果てず──やわらかな星のさざ波に己が肌をすべらせ、指先を遊ばせ──やがては瞼や肩先のみならず、まなざしの赴くところ隈なく、浄められた肌に唇の熱を星くずのように燃え立たせて──。
人間だった頃の彼女は、彼が神威を封じて人の姿になっていてさえ、毀れてしまいそうなほど、やわらかく脆い身体をしていた。軽くふれただけでも、死なせてしまうのではないかと不安だった日々。花の萼を手折らぬよう、蝶のか細い肢を取らぬよう…ともすれば強くかき抱きたくなる己を押しとどめてきた。
けれど、今は違う。
鎖骨のくぼみを、仕上げとばかりに揺籃の唇できれいになぞったあと、心のままに、幾分荒々しく、妻の腰を掴んで抱きすくめてから、やっとプシュケーを解放すると、満ち足りて仰向けに身体を投げ出した。
そのくちづけのひとつひとつが、身体の深い場所までもゆっくりとほどいて──プシュケーは、その刻印のたびに、己が唇となり、乳房となり、指となり、耳朶となり、ゆるやかに砕ける春の豊かな波のように、とめどなくくずれ去っていくのを、ただ受け容れ、そしてただ揺れながら満たされていた。
ようやく目を開け、星羅をうつした瞳を艶やかにけむらせて、アモールの目元に乱れた前髪を指先でかき上げた。星の流れるようにその手を頬に添えると、絹のように秘めやかな口づけを唇に返す。芳しい肌のぬくもりにたわむれながら、首筋に頬を寄せ、胸うちの吐息をそっと漏らした。
アモールはうっとりと眼を半ば閉ざし、空の果てで星がひとつ透き通っていくのを静かに味わった。
「きみがそんなふうなくちづけをしてくれるなんて、思いもしなかった」
それを聞いたプシュケーが、良人を喜ばせようと首を伸べ、意識しすぎてむしろ硬い唇を押し当てて首をかしげたので、アモールは吹き出しそうになるのを懸命にこらえた。
そのまま妻を抱き寄せて頭を胸に受けると、栗色のひそやかな 耀いに指先をたゆたわせ、手慰みに指輪のように巻き付けながら、口を開いた。
「愛がこんなに素晴らしいものなのなら、今すぐに世界中の人間やニンフやけものたちに、恋の矢を射て回りたいほどだ──いや、いっそ矢をすべて燃やし尽くして、二度ときみのそばを離れなくていいようにしようか」
プシュケーはあでやかにほほえんだ。
「お心のままに。──でも、一本だけ残しておいてね。あなたの矢に撃たれたら、どんな心地がするかしら」
アモールはふっと唇をゆるめ、それから厳粛な面持ちになった。
「きみに、激しく求められたい気もするけれど。でも…あれのもたらす愛がいつわりだなんてことはないにせよ、きみにだけは使いたくないな…たとえ、私が愛されなくなる日が来たとしてもね」
「──愛は育むもの、育つもの。枯れぬもの、尽きぬもの──愛の神の御名にかけて、永遠にあなたを愛します…」
歌うように、大人びた調子でプシュケーはつぶやいた。それは、書物庫で見つけた讃歌集の中で、アフロディーテがアドーニスにささやいた、証の言葉だった。
「では私も、愛の神の名にかけて、とこしえにあなたを愛することをここに約そう」
アモールは重々しく、ゼウスかハデスのように真面目くさって述べた。それからいつもの彼に戻って微笑み、甘えるように身体を少し丸め、プシュケーの胸に頬を寄せて、密やかな香りをこっそりと胸いっぱいに吸い込んだ。
プシュケーは、恥ずかしいやらくすぐったいやらで気が気でなく、アモールの顔を覗き込もうとする。思わず遮ろうと胸元に手を伸ばすと、アモールは素早くその手をつかまえた。
「──きみが冥府に行く運命から解放されて、本当に良かった。今でこそ言えるけれど、あるとき気づいたんだ。私がきみを愛したせいで、ハデスがきみを永遠に冥府に留め置き、酷い目に遭わせることだってあるかもしれない…その前に、私がハデスの所に行って、きっと怒りが解けないだろうから、気の済むまで苦しめてもらうより他はないのだと思って…」
瞳を翳らせて聴き入っていたプシュケーは、つい割り込んだ。
「アモール。お言葉だけれど、ハデス様はそのようなお方ではありませんわ。一見、冷たいご様子で謎めいた方だけど、清廉で…正しい方だとわたしは思うの。だから、ペルセフォネーさまはあの方を愛していらっしゃるのだわ」
「プシュケー…妬かせないで」
そんなつもりもなさそうに、安心しきってアモールはつぶやいた。それから身をのばし、妻を抱きしめ直した。
「──きみが王宮のバルコニーの際のところに出てきたときに、薔薇園から矢を放った話はしたと思うけど……あのときに使っていたのは、対になってはじめて効果をもたらす種類の矢だったんだ──そう、いろんな種類があってね。たとえば……」
アモールの甘やかで心地よい声が、耳からだけでなく身体の響きとなって、さざ波のように淡く、満ちては引いていく。息づかいにあわせて上下する胸の律動を感じているうちに、プシュケーは次第に眠くなってきた。
アモールの傍ら、寄り添うように身を横たえ直すと、ほほえんで眼を閉じた。
永い一日だった。
──けれど、もう何も、心配することはないんだわ──。
ペルセフォネーさまも、あの方とこうしていらっしゃるのだろうか──。
けれどそれは、夢想するにはあまりに美しい秘めごとだった。
もう一度、アモールの腕に指をかけ、いずれはともに眠りの波間に誘われることを受け入れながら、プシュケーはかろうじて目を開き、アモールの面を見つめた。
あたたかな光のなか、やわらかな寝台に心地よさげに身をゆだね、時折声を弾ませてものやわらかに語っている様子は、刹那刹那が銀色の澄んだ糸のようで、それが胸の奥に、音もなく織り込まれていく。その光は涙なのか、喜びの雫なのか、わからないほど透きとおっていた。
このひとがこの先もずっと、死に閉ざされることなく存在し続けることができるこの世界に、常に新しく出会い、目覚め続けていたかった。
このまま起きていたい……この甘やかな一瞬のゆらぎに、永遠に迷い込んでいたい……。
アモールの足の指先が、身じろぎにつれて、足の甲をふとかすめていくのが、少しくすぐったかった。
プシュケーは、ふわりと笑みをかんで、そのままふうっと眠りに吸い込まれていった。此岸から彼岸へと、心地よさに押し流されるようにして。
「──というわけで、ほとんどの場合、人間だと、矢が当たったことに気づかないんだ。山の上から大地へ放っても、痛みもないからね。だけど、あのときのアポローンの顔ったら──あ…」
笑みを含んだアモールは、ふと言葉を飲み込んだ。
静かな室内に、かすかな寝息の音だけが、ほどけていく。
「…プシュケー」
愛の神は、いつものように眠りに落ちてしまった妻の名を、そっと呼んだ。
「──私はもう、先に眠ってもよくなったのに…それでもきみが眠ってしまうんだね…」
横向きに、彼の方に身体を向けて眠っているプシュケーの、真珠にうすあかりを灯したような初々しい寝姿を、アモールはたまらなく愛おしそうに見つめた。
寝室は、石壁の高いところで炎を上げている何本かの松明によって、心地よく照らし出されていた。
「きみに見守られながら眠りたかったのに……そうだな…朝、きみが目覚めたその後まで、眠っていようか……」
曲げた指の背で、透き通るように美しい頬に、そっとふれてみる。
「……アモール…?」
夢うつつ…まどろみながら。清らかな唇が、彼の名を呼んでほほえんだ。
アモールは、やるせない吐息を漏らして、妻の上に身をかがめた。
──いっそ起こしてしまおうか。
先刻、互いの心と身体を捧げ合い、分かち合い、奏で合って──すべての光と色彩が洪水のように溢れだすなかを、プシュケーとふたりでたゆたっていた心地よさが、今もなお身体の深いところに息づき、彼を呼んでいた。
そこは、ひとりでは決して行くことのできない場所だった。
腕にふれ、揺り起こそうとした彼は、ふと妻の背中に目をとめた。
それまでずっと隠れていた蝶の翅が、艶やかな栗色の髪の間から顔を覗かせていた。つぼみが花開くように淑やかに、乳白色の肌に薄青い花を咲かせていく。夜の光のもと、薄玻璃の月のように、微かに重なりあい、鈴のふれあう銀の響きを、音もなく奏でながら。
アモールも、白い翼を顕して背にたたみ、寝台に身を沈ませた。
「そうか……きみにとっては、目を見張るような出来事が続いた一日だったね──そんなに疲れるなら、《冥府の眠り》を持ってきておけばよかった──だけど、きみのご両親もすっかり驚いて、でも喜んで…泣いて慶んでくれて、ほんとうによかった」
アモールは、プシュケーの瞼に光る、黄金の涙を見つめた。
それは、彼の両腕の海原でしなやかにたゆたいながら、喜びの涙を零していたその名残が、眠りの岸辺で波立ち、浮かび上がってきたものらしかった。
この世でもっとも小さく深い海さながらに、瞼の端に生命の光を結んでいる。
「きみは、女神になってもなお、泣くことができるんだね……私も、そうできたらいいのに」
アモールは、祈るように、妻の涙をそっと唇に受けた。
それから、柔らかな胸もとに手のひらを当てる。ゼフュロスの言うように、アンブロシアの作用で、すでに鼓動がだいぶゆったりと間遠になってきたことを確かめた。
「──あの頃のきみの鼓動はずいぶん速くて…いまにも壊れそうで…それだけで苦しくて…なんてけなげな命だろうって……でも、もう大丈夫だ。きみは死ぬことも、老いることもない──こうして、女神となったのだから」
この夜が始まったとき、彼は天女の羽衣を取るように、プシュケーからそっと婚礼衣装を取り去ったのだった。
人間だったプシュケーが最後に身につけていた衣装。婚礼の折の、たとえようのない美しさは、死が投げかけた最後の残照だったのかもしれないと思いながら──優美の女神たちが結び目に忍ばせた、祝福といたずらな謎かけとに、時折指を止めつつ──髪紐や留め具のひとつまでいつくしむ彼の指先を、プシュケーはほとんど神聖なる信頼をこめたまなざしで見つめているようだった。
婚礼衣装のあちらこちらには、原初の神々が興り、天地が一巡りする様にも似て、混沌や大地、清明な大気らにかかわる神秘が立ち迷い──明け方からまばゆい昼、ゆったりとした午後から夕方へと、時間がうつろいたゆたっていた。
最後の、夕映えの結び目をほどいたアモールは、純白の紗の最後の一枚を、磨き抜かれた床にそっとすべり落とした。
ふっと、永遠の彼方からはぐれた透明な風を眼差しによぎらせて──深く願った瞬間が訪れたことを悼むように瞼を閉ざし、あめ色の瞳を伏せた慎ましやかな肌に肌を合わせて、妻を無限へと解き放ったのだった──。
安らかな眠りの枕元に、プシュケーが故郷からの名残に持ってきた薔薇水晶の腕飾りが置かれていた。アモールはそれを手に取り、彫り込まれた可憐な花姿を眺めた。
この薔薇水晶が朽ちて砂と帰してもなお、死ぬことのない身になったことに、プシュケーは空恐ろしい心地がするようだった。
そんな妻を愛らしく思いながら、アモールは言祝ぐようにうっとりとささやいた。
「ほんとうの愛とは何なのか、きみが知ってくれていたら、それで充分だ──そのきみを、私は愛することができるのだから…いや、きみを愛するだけでは治まらない。私はこれからのち永久に、きみの同胞であった人の子ら、ひとりひとりを我が身の如く愛するだろう──きみが、何者でもなかった私を受け入れ、応え、愛へと導いてくれたからだ…おやすみ、プシュケー」
プシュケーと過ごした夜々で初めて、アモールは心身ともにくつろぎ、熟睡した。
朝の光に目覚めると、半身を起こし、畳んでいた翼を軽く拡げて風を通した。
プシュケーを見やると、まだぐっすりと眠り込んでいる。
仕方なさそうに笑って、愛の神は、永久に愛すると心に誓った妻の、無防備な寝顔を見つめた。
やがて、プシュケーが、瞼をかすめて飛び去る眠りの羽ばたきを追って不思議そうに目を開けると──そのひとへの恋心ゆえにすべてを諦めようとした彼女の愛が、優しい茶色の瞳で、こちらを見つめていた。
「もう陽がずいぶん高く昇ったよ、お寝坊さん」
「アモール──わたし夢の中で、あなたの腕の中にいたの」
プシュケーは甘やかなまなざしでほほえんだ。
アモールは、ほほえみで応えてから、ふと、もの思わしげに言った。
「プシュケー、それは私の影ではなく、夢の神かもしれない…彼はどんな姿にでもなれるから…あまりに鮮やかなときは、気をつけて──彼の館は冥府にあるから、もしかしたらきみを見かけたかもしれない。そう思うと、心配になるな…」
プシュケーはさもおかしそうに笑った。
「きっと、モルフェウス様が驚いておられますわ。でも…アモール。わたし、あなたと他のだれかを間違えたりなどしないと思うの……わたしが《魂》なのなら、あなたの魂を見誤ったりしない。夢の中で誰かが偽って近づいてきたら、必ず目覚めて、ここに戻ってくるわ」
「プシュケー…」
感に堪えない様子で首を振ると、アモールは深い吐息を漏らした。
そして、その魂に宿るひたむきな愛を、華奢でやわらかな身体ごと、力強い腕で迷いなく抱き寄せ、深く唇を重ねたのだった。
やがてプシュケーは身籠もり、嬰児を迎えることとなった。
月がその弦を九度、新たにし光で満たした後──。
アフロディーテが助産の女神を伴って現れ、生まれ落ちた子に、《微笑み》という祝福を授けた。
神妃ヘラは、すべての男性から敬愛を受けることを約し、アテナは叡智を授けた。続いてイリスが、嬰児のまなざしに妙なる神秘を忍び込ませた。フローラは蕾の如き愛らしさを、アルテミスは高潔さを与えた。デメテルは豊かな心の実りを、ヘスティアは優しき心の灯火を。
《悦び》という名を持つ新しき珠は、母の思慮深さと父の優しさを兼ね備え、極めて美しく晴れやかであった。
冥府の王と妃もこれを嘉し、ペルセフォネーは小さき少女を膝にのせて慈しんだ。ヘードネーも殊のほかペルセフォネーを好み、父母の胸で満ち足りたあとは小さな手のひらを伸ばして、女神の静かな微笑みに戯れるのだった。
ゼフュロスは、少し離れたところで彼らの姿を朗らかに見守っていた。
プシュケーが転生の環から離れ、もはや訪れることのなくなった極楽の野をわたるやわらかな薫風を、永遠を糧に生きる彼らの方へと、そよがせながら。
〈完〉
[frontispiece]Created by modifying
Antonio Canova: Psyche Revived by Cupid's Kiss (first version, 1787–1793), photographed by Jean-Pol GRANDMONT • CC BY 4.0
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