直樹の自己紹介と、Noteの運用方針—メサコン男はいかに自身をケアすべきか
はじめに
私は、Noteを、自分自身のケアのために運用しようと思う。本記事に記すのはその経緯と、どのようにして自分自身をケアしていくのかという方針、それとケアの対象となる自分自身の性質に関するメモである。「直樹について」「セルフ・ケアの方針」の順で記述していく。
直樹について
メサイア・コンプレックス
私は学生だが、今は休学している。入学したのは心理学を学べる大学だ。私はそこにカウンセラーになるために入学した。なぜカウンセラーになろうと思ったのだろうか。
私にメサイア・コンプレックスがあったからである。人助けに取り組むことによって、自分自身の問題を忘れようとするという、アレである。私が救いたかったのは、社会に打ちのめされ、生きる意味や、自分自身の価値を見失ってしまった人たちであり、私はそういう人たちに、「あなたたちは尊い存在だ、あなたたちが生きることには必ず意味が伴う」ということを言うつもりだった。
それはほとんど宗教家の仕事だったのかもしれないし、実際、客観的な統計という手法をとっている現代の心理学では、すべての人間が生きるに値するという事実を客観的に示すことはできないようだった。心理学者の客観的な口ぶりを見聞きしてそれを察していったのもあったし、何よりもそれは自分自身の問題だった。私は自分自身が尊いなどとは、自分が生きることに意味があるなどとは、一片も思っていなかった。私は自分の人生が虚しいと思っていた。
思うに、その虚しさの根底には、かつての母との不安定な関係がある。私はYという女性を心の拠り所にしていたことがある。彼女は精神的にとても不安定で、「私には価値がない、自分が生きていても意味はない」ということを言い続けていた。私はそんな彼女に心底惹かれ、そういう彼女の言動を否定し、彼女の全てを肯定できるような言葉を探し続けていた。ショーペンハウアー、ニーチェ、フランクル——そういう思想家の概念に親しんだ。自分の手で言葉をこね回し、彼女を肯定できるような思想を作り上げたこともある——あらゆる存在は、尊いのだ、と。しかし最後まで、彼女は自身を貶め続けた。自分自身を貶めるのも彼女の一部分に違いない上、私自身が自分の人生に価値を見出せていないのだから、それは当然の話だったのだが、この愛着のスタイルは、かつて母との間に結んでいたものと似ているようだった。
すなわち、私は母の全てを愛さなければ、死ぬ、そういう状況に置かれたことがある。
マザー・コンプレックス
小学4年生だった頃くらいに、父が単身赴任で遠くに行ってしまった時期がある。私の家には時にヒステリックになってしまう母と、発達障害の私、それと妹と弟がいた。私は母を困らせるわけにはいかなかったのだが、それでも私は、毎日のように母を怒らせた。時には刃物を持ち出そうとしたり、死んだふりをしたり、兄弟を置いて家を出ていったり、そういう怒り方をする母だった。母は自殺のそぶりを見せたりもした。私は母とうまくやらないと死んでしまうと思った。当時は、育ててくれるのが母だけだったからだ。
だから私は、刃物を持ち出そうとしたり、暴言を吐いたり、暴力を振るったりする母を愛そうとした。ここでいう「愛する」とは、相手の全てを受け止め、自分自身の人生の拠り所として肯定するということである。冷静に考えて、とても無理な話だったのだが、今までの自分自身を振り返ってみるに、その時に形成されたそういう愛着スタイルに囚われ続けているとしか思えない。
「絶対肯定の愛」という愛着スタイル
ヴィクトール・フランクルは、著書『夜と霧』で、このように言っている。
これはおそらく、アウシュヴィッツなどのいくつものユダヤ人強制収容所を生き延びたフランクルが示す一つの真理なのだと思う。しかし私の場合は、こういう「愛」の使い方に病的に囚われていた。これ以外の生き方がわからず、最も愛しづらい、本人が自分自身を愛していないような相手ばかりを愛そうとし続けた。「絶対肯定の愛」という愛着スタイルである。
思うに、これは母親が子に対して持つべき愛着スタイルなのだが、どういうわけか私はこれを母やそれに準ずる人たちに向けていた。私の母は母親を求めていたのだろうか。考えてみれば、私の母は母親を早くに亡くしていた。
私に必要なのは、健全に愛することができて、私が全肯定しなくても元気にやっていけるような自己対象である。また私は、愛するということは相手の嫌なところも全て受け入れて肯定するということではないし、そうしなければ死んでしまうわけではないということを理解しなければいけない。ここはアウシュヴィッツではない。それを、実感しなければならない。
私はNoteを、これらの取り組みに活用していく。
セルフ・ケアの方針
愛着に関する取り組み
愛着に関して、私が取り組むべき事柄について整理すると、以下の様になる。
健全な出会いへの取り組み:私は、健全に愛することができて、私が全肯定しなくても元気にやっていけるような自己対象と、健全な愛着関係を築かなければならない。
歪んだ愛着スタイルの解体:私は、愛するということは相手の嫌なところも全て受け入れて肯定するということではないということを理解しなければならない。
安心感の育成:小学4年生の頃と違って、今の自分は無理な愛し方をしなければ死んでしまうわけではないということを実感しなければならない。
ひとまず私は、これらに取り組むための事項を整理するために、Noteを運用してみる。その過程で当てにできそうな知識体系などを、以下にいくつか挙げてみる。
フランクルによるロゴセラピーの思想:フランクルが提唱したロゴセラピーは、人生の意味に取り組む精神療法である。私は自分自身の人生に大きな虚しさを感じるため、このロゴセラピーの考え方から学べるものは多いかもしれない。また、ロゴセラピーは昔から自分に馴染みのある考え方である。
精神分析学:フロイトが創始した精神分析学は、親との関係やそのトラウマ、性欲の扱いに着目した知識体系として挙げることができる。
コフートの自己愛に関する研究:「自己対象」などの概念から学べることは多いだろう。
浄土真宗の信仰:浄土真宗の信仰では、阿弥陀如来を究極の拠り所とする。私としては、それは安全基地の感覚に通じているように思える。浄土真宗の信仰は我が国日本で長きにわたって続いてきた体系であるから、西洋の愛着論よりも信頼感がある。
私のNoteでは、以上のテーマに関するメモを書いていこうと思う。