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10 春の雨と背広

春の夜の雨の匂いのする背広

人というのは、勝手なものだ。

頭に髪が生えるように、いつの間にか心に根をおろし、放っておけば、視界を遮るまでに、人の精神世界を、のはさばり始める。そのうちには、心に張り付いてもうその事だけしか考えられなくなるようなものも出てきて、まあ、若いときはそんなこともある。

そして、時がくれば、黙って抜け落ち、二度と戻ってこない。

彼の訪れは真夜中だったという。

垣根の隙間から姿を確認すると、昔の男だ。近所に気兼ねしつつ、黙って向かえ入れる。

—そのとき、背広から雨の匂いがしたの…雨の中を走って会いにきてくれたのよ

縁側の椿はそう言って、細い身体を微かに揺らし、うっとり眼を閉じた。

日を違えて、通りの向こうに住む山犬と呑んでいたら、こんな話になった。

—夜分に急な雨に降られて、たまらず旧知の軒を借りたのだが

以来、体中が重い。女の香水の匂いがする、そうこぼしながら、剛毛の奇麗に生え揃った大きな背中を、ぶるりと震わせた。

—お前は、自分で気がつかないうちに、だれかをしあわせにしたり、傷つけたりしてしまうなどと、考えた事はあるか

つまりだ、その、女心とか恋心とか、魚心に水心とか。

—なんだそれは、美味いのか

そういうと山犬は、酒の勢いにまかせ豪快に笑う。心配ない。放っておこう。

椿は来年の春にも、垣根の中に身を潜め、心を幸福で一杯にして、雨夜の訪問を待っているのだろう。

執心というのは、五感に基づく解釈を狂わせる。取り付かれた方は、ささいなことで面白いように簡単に幸せなったり、不幸になったりする。

終わってしまえば、すべて喜劇。勝手に生きたもの勝ちだ。

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