20 潜って行く
ここを、潜って行きますが。
不意に背後から声がかかる。
見ればふっくらふんわりと、薄黄色の結城をまとった奥方だ。
薄い化粧が好ましい、控えめながらなんとも優しげな風情である。
胸いっぱいに菜の花を抱え、品よく首をかしげてきた。
私はといえば、桜の精に当てられてふわふわと落ち着かぬ心地ゆえ、古い渡し場に来て川を眺めていたのだ。
渡し場には、とうに立ち寄る舟はなく、この先立入禁止の札が立ち、二重に縄が張られているが、なんというか、その縄の、やる気の無さだ。
「ダメって言われると、入りたくならない、ねえ?」とでも言いそうな、危なげな緩さで廻らされている。
ここを、潜って行きます。潜って行きますが、どうぞお気になさらぬよう。
結城紬が繰り返す。
せんに、主人が、このあたりで。
いえ、届くとは思いませんが。花をね。
そういうことであったか、いやいや却って失礼をしました、道中気を付けられよと
渡し場をあとにした。
事故か、入水か、切ないことだ。
一緒に参ってやるべきだったか。何か気のきく一言もあったろうに。
一人では心細かろう。
そんなことを思いながら道に戻る背後から
「ひとりで参ります。水掻きも鰓もない、あなた様にはご無理でしょう。やすやす心を開かぬことです」
そんな声に続き「ちゃぷん」と水音がした。
潜って行ったのか。縄を、ではなく、水に、か。
そういえば乾ききらぬ裾が、僅かに透けていた。
水鳥か…?
どうも頭がぼんやりしている。ぼんやりしたまま考えた。
なるほど、やすやす情を持つものではない。ものわかりのない、青大将などの類であったらば、そのまま引かれて、次の春には我が身が「参られる」こととなりかねなかった。
「うちのはね、そうやって、引かれたんですよ。まったく春の心地というのは、用心しないと望まぬ敷居を越えてしまうもんですから」
そんな声を脳裏に聞きながら、案外あのいい加減な縄には考えがあるのだなと合点した。
夕方、どうも気になって、また来てしまった。
ここに、何かを置き忘れたような気がしてならない。
魂を少し、持って行かれたのだろう。
くれてやろう。魂のひと欠片ふた欠片、手放した方が軽やかだ。
奥方の潜った跡には、水面一面に浮かんだ菜の花が、愁いを含んだ春の雰囲気をいっそう深くして、いつまでもいつまでもゆらゆらと揺れていた。
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